リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-70)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
アマルガンの民衆史観
「27 祭」(旧)
「18 祭」(新)
ドラバロにリンレイを据えて本陣に奉る話、そのアマルガンのもくろみについて、アマルガンの諸国を巡って知っていた大衆の民意なるものの考え方とともに、完全版では加えて、近年になり地上界から地上人・地上の文物・発明品が続々と流れ込んでくるようになって『世界そのものがいびつになってきたのではないか?』という危機感が書き足される。
アマルガンの動機に彼個人の野心だけでない、世界のゆがみを正して世界を平穏にしようという、漠然とながらある種の使命感のあるのが『リーンの翼』新旧版で無視できない違いだろう。
ここでは大衆の狡猾さ、英雄をスケープゴートとすること、という社会現象の見方(読み解き方)を紹介しているのだが、まず「スケープゴート」という言葉にはぽんと口にするには時々使われ方の怪しいことがある。
自分は人の上に立たず、名を求めないことで決して権力に根絶やしにされることもないという「民衆の強靭さ」については、決して、古代からも知られていない人間集団の性質ではない。古代中国やローマなどでも「王侯の権勢の虚しさ」を笑いつつ、雑草のように生きる無名の民衆としての自負――のようなものは、たとえば文学の中に見られるそれは、いつの時代にもある。
ただし、歴史の記述方法として、民衆を主役として民意なるものはいずこにあるかを歴史理解のテーマにすることは、比較的新しいことだ。歴史の法則は天意よりか民意にあるとして……そうした近代の史観を持って現れたのが前回はゴゾ・ドウだったろう。アマルガンもまたバイストン・ウェルに今までなかった歴史観でもってバイストン・ウェルの「現在」を理解しようとしている。
それは、作中ここまでのエピソードからするとゴゾやアマルガンが各々の人生の遍歴から磨き出してきた信念だったと思われていたが、どうやら最近になって地上界から人間がたびたび降りてくることが増え、そのインタビューから「地上の思想」を直接に学んでもいる想像もできる。迫水以前にもアマルガンはそれらに会っているだろうことと、ガダバにも地上の歴史学を教えている者がいると思える。
4月頃には『ドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる』とわりと軽く飛ばしているけど徐々にシリアスになる。
余計にこまごまと書き込んでいるようだけど、わたしはわたしなりに富野ファンの界隈など知っていても、読者としてあながち無用な指摘だと思ってない。むしろ『リーンの翼』の作中、アマルガンの性格は地上人の迫水に大らかで豪放、くらいに典型的な豪傑的性格としか大半の読者は読んでないんじゃないかと思う。「裏がある」と言えば野心家だ、というくらいか。
だがアマルガンはむしろ、登場した当初から得体の知れないほどインテリで、どうにもインテリ臭がするので自分でそれを隠そうとする、武人的に振る舞ってみせようとするような男だった。性格がそれで、なおアマルガンの思想はきっとそんなに理解されていない。
「歴史学は武器」信念
「異世界ものストーリー」(現代日本から異世界に行く話)について、人気でもあり定番でもある型が、現代の歴史学の成果によって更新されている歴史観を、中世や古代相当の思想しか持たない世界に投入することで圧倒的な武器になるという「歴史学は武器」信念は、今現在でもおそらく基本的に覆ってはないだろうと思う。
現代から、銃砲などの兵器や、農作技術や、経営マニュアル等などを抽出して武器にする個別話題は、今問題にしてない。「古代的な世界では、古代戦術の考え方が逆に有利なんだ」という逆転の提示も今はそれなりに説得的に広まっていると思う。もっとも、それ自体は近代思想である。
『バイストン・ウェル物語』は異世界に機関砲を持ち込むことが主要な問題だったことはない。「魂の物語」がメインテーマで、歴史解釈がどうかもその魂の話のついでにされることだ。
前回、『ガーゼィ』の間にも史観闘争のことに少しだけ触れたが、わたしは昨年まで、「歴史観の争奪戦」がテーマになっている日本のSF作家も数人見てて、アニメ監督では押井守を挙げていた。押井作品はそればかりをやっているわけではないけど……『獣たちの夜』『雷轟』のようなとくに小説作品を読んでみると、山田正紀みたいな作家との親和性はわかりやすい。今のは、富野的な立場ではむしろそれでないなと思うほう。
世界を捕えるための認識のありよう
『特攻を志願した青年が、ついに自分のその生真面目さに、たとえ謙遜であろうとも、馬鹿という形容を使ったのである』としてこれを驚愕すべきことという。続いて、
「世界観」の語が使われる。まえに氷川竜介氏の日本アニメ論を新書で読んだが、氷川さんが日本アニメ史の転機として語るときには「世界観主義」という用語を使ってそれを強調する。その主役の一人が、当の富野由悠季でもある。
この、アニメの話前提での「世界観」の語の使い方については氷川本などはとくに参考になる。アニメ話でなければ、その考え方は「コスモロジー」と呼んだり、「ヴェルトアンシャウウンク」のように呼んだりするとも、すでに触れた。
さらにいうと、では、「富野由悠季は世界観主義の作家か」というと、とてもそうは思えないことも言っている。エモーショナルなもの、のようなことをどういう前後文脈から言うのかなども、前回復習した。
「世界観」という言葉にはそもそもこういう使われ方がある。これは『Uボート』から。
憧れ、もある。
旧27/新18章おわり。旧版3巻読了。完全版1巻はまだ数章つづく。このあと旧版のあとがきも読んで終わりにする。
章末を少し遡る。
戦いの激しさのわりに戦死者は少なく済んだ。だが、完全版ではそれでも、負傷者を抱えて集団が山岳地帯を脱出する困難は「むしろ死んだほうがましだという様相」について一言足した上で、
と括られる。かなり重要な加筆部分かと思う。迫水達はこれでゲルドワの地を去る。饗宴の後に迫水が夢見るのは、一度だけ父に連れていって貰ったことのあるという、
いずれにしても迫水の郷里ではなく父の郷里だが、夢に描く光景は新旧でだいぶ違う。これも新版での要所のひとつ。
わたしのこのたびの通読では、アーマゲドン史観とかアポカリプスについての経緯を参照。その話はずっとしているともいえるが。最近でもこういう記事を読むにつけ、どういう作家の過去の経緯かは少しおさらいしておきたいとは思った。少なからず印象が違うと思う。
ウオ・ランドン
「28 スィーウィドーのこもれ陽」(旧)
「19 スィーウィドーの狭間」(新)
スィーウィドーの森の説明のなかで、その巨大な樹が支えているという天の水、コモン界の上にある水の世界のことをウォ・ランドンというのだが、この「ウォ」には、小さな「ォ」ではなく「ウオ・ランドン」と記してあることがよくある。
『リーンの翼』中、「水の世界 」のようにルビしてある場合には区別が付かない。ルビでなく本文に「ウオ・ランドン」とあるのは1巻の序文から早々にあるが、2巻の間には「ウォ・ランドン」ともあり、作中ではどっちの場合もある。旧版4巻28章のここではずっと「ウオ」と書かれている。『ファウ・ファウ物語』にも「ウオ」と書いてあるのが見られるがシリーズの後の作品になるほど「ウォ」に統一されていくようでリーン完全版は全て「ウォ」になっているようだ。
この前の「フイルム」でもそうだけど、富野監督くらいの年配の方だと文に「ウォ」と書いても音読では「ウオ」と発音しているような場合がよくあるんじゃないか……みたいにはわかる。それは推すけど、それとしても、ウォ・ランドンのネーミング元は「ウォーターランド」のようなわりと安直なところだとは思うが、「ウオ」というと「魚」の連想を誘うような、燐を鱗とも呼ぶ言い伝えにつながるのかな……のような空想もわたしはする。
スィーウィドーについては、『逆襲のシャア』(ベルトーチカ・チルドレン)の中でスペース・コロニーの「スウィート・ウォーター」のことを「スウィーウィドー」と書き違っている箇所がある。
フェラリオがいるような世界で細菌がどうとか……地層中に古生物の化石が発見されるか等いうのがナンセンスだ。人間の夢がそれを思い描くようになって仮に数千年しか経っていないとしても、数百万年や数億年の歴史を含めた世界を創成するかもしれん。
迫水隊の若者達が迫水に軽口もきいてくれるほど馴染んだ、信頼関係、結束、のことから「戦闘集団」について論じる一文が始まる。旧版では、
完全版では2-5はおおむね脱線として、戦闘集団についてナポレオンが言ったことに要約されている。
上のところは話の脱線感がわかりやすい、「何が言いたいんだ」というか、「それは話が違くありません?」という気が読者としても読んでいて差すのだけど、『リーンの翼』のここまで全体に、何かと言うとストーリーを中断して旧軍批判が始まるのは、主人公の迫水真次郎がその旧軍の「体制の弊」の被害者で死地に追いやられた、傷心の若者として物語が始まっているから、ではある。
迫水のトラウマのフラッシュバックとして、言うに言われなかった理不尽への怒りや憎悪がその時々に噴出する……と言ってもいいのだけど、バイストン・ウェルでの小説の現在筋には無用に事細かに及び、それも同内容をくり返す印象になっている場合は完全版でばっさり切り落とされてるのは妥当だと思う。
富野小説作品の書かれ方として、物語の筋をちょっと置いて作中で富野エッセイが始まるのはいつものことだが、その読者レビュー等を見るたび「わからんので読み飛ばす」「深い意味はない」のような投げやりな感想が占めているのは、それはまた不満なことだ。ガンダムシリーズの読者層は年齢も上から下まで無差別で仕方ないのだが……。
この感じを思い出したのは、わたしは今度の通読で『ガイア・ギア』から『Vガンダム』の間に小説が洗練しているとも感じた。昨夜の『リーン』3巻あとがきにも「作劇の要諦」について悪戦苦闘の跡を書き残している。今はその変遷を読む、と前回言った。
ドラ・ロウ
「29 閃光」(旧)
「19 スィーウィドーの狭間」(新)つづき
ドラ・ロウ。現在のガダバの首都で旧名ベッカーラ。ベッカーラは「ベンカーラ」と書いてある箇所もあるが一般的にベッカーラ。アマルガン・リンレイの蜂起軍の現在の拠点ドラバロからの位置関係は前巻で、
とあったが、完全版1巻の巻頭の地図を見ても、ドラバロからドウ・ロウへはまだキェ一国を丸ごと挟んでいてあまり要領を得た戦略の説明とはいえない。現時点では雲の彼方のような遠さ。
ゴゾ・ドウの第三子、俊英シュムラ・ドウ登場とともに、ドラ・ロウの王城についてここで概略。
城下町の大通りから続く先にそびえる一大城郭は、まず高さ十五メートルの巨大な城壁。幅二十メートルの堀が三重にめぐらされて「平城だが、外観は中国の城郭に似ている」。
西洋式に近いという意味が「いくつもの鐘楼」という、鐘楼は鐘を吊るしているかは分からないが、高くそびえる櫓か尖塔ではあると思っていいだろう。もともとシィの国の城市だったが、それに外堀を追加させて、城内の構造は『騎兵の侵入と、火薬の攻撃に対して懐を深くしたのである』とある。
城郭の、政治的な機能についてはこの時代あまり問題ではないのだと思う。ガダバが何と戦うつもりで決戦要塞都市のようなものを築いているかは明らかではないが、このドラ・ロウの城の外堀の工事のためにシィの国の貴族・武人の血統を奴隷として酷使し体よく皆殺しにしたという。
ゴゾ・ドウはリーンの翼出現の報にその大衆への影響力、蜂起集団の士気への影響をいち早く察し、それがシュムラには分かるまいとも予知しているが、この時点でドラ・ロウに対空砲の準備はされていない。
バハン・マッシュラ
蛭の沼地のあと森の待ち伏せ攻撃が始まったとき、迫水隊の年かさの隊員マッシュラがいち早く号令をかける(新)。旧版では迫水の台詞が、このあたりでは隊のメンバーの面々に割り振られている台詞もある。
このマッシュラなるキャラクターに見覚えがなく、探したところ旧版2巻のドラバロ攻めの前、偵察から戻ったテラビィを介抱している若者がそう呼ばれている。完全版でのその場面では「バハン」という若者が担当している。このバハンは、完全版に点々と登場していて時折台詞も分配されているけど、旧版にはいない。
完全版巻頭の人物一覧の中にもアマルガンの軍の中に「バハン」とのみある。もしかすると、「バハン・マッシュラ」のようなフルネームが新設定されているのかもしれない。
旧29おわり。今夜ここまで。
ダーナとの初対面のいきさつが新旧で少し異なる。そのせいで旧版では迫水を「傲慢」と見た悪印象がダーナに入っていない。ダーナの台詞の『そりゃ無理だよ。聖戦士殿……』が、迫水隊のテラビィ?の発言に移って、それでもその場面は通用する、面白い変更。
この章の戦闘は状態の錯綜するさなか、新旧で展開は大きく変わらないものの文章表現の端々まで書き換えられていて二回読んでもスリルがある。
短く文章を詰めてるだけじゃない。スィーウィドーは常に巨大な梢のうごめく唸りが響いているシーンは思い出しておいて……兵士たちの悲鳴がスィーウィドーさえも「揺する」か、「切り裂く」か、どっちを取るかのようなファンは議論すべきだよね。
「30 血の騒ぎ」(旧)
「19 スィーウィドーの狭間」(新)更につづき
場面は前線のスィーウィドーから現在の後方、本拠地であるドラバロ。アマルガンとリンレイのいるところに戻る。
このようなリライトは文字数を詰めるような意識は全然ない。「風がない」理由に盆地のような地形と、「梢越しに」ということで周辺にそれなりの植生のあることの描写を書き込んでいる。
こう連日のようにリーンの新旧を較べ読んでいると、この「完全版」に当たっての書き込みは著者にとっても相当に熱心にされているように伝わる一方、それでも章によっては幾分か濃淡のリズムは感じる。スィーウィドーからこちらの完全版のテンションが高い。読者が疲れているのかもしれない。
軍事だけでなく軍事と生活の両面、穀物だけでなく魚介も畜産もという。とくに「異世界経済のリアリティ」については完全版の端々に新たに熱意を奮っている印象がある。憶えているところはゼラーナ号での船上生活のあらましとか……。それはこの新旧の間、90年代や00年代までの和製ファンタジーの経過などは、思いきり、異世界経済・民衆史観のような史観・世界観にどっっぷりで流行したので、旧版のそれも時代遅れになってしまって、まだまだ書き足りていなかったような気持ちは湧くのだろうと思う。
モドロ・バサ率いる援軍の規模は
何かの理由(あるいは、なんとなく)で増量されているが、わたしはわからない。映像をイメージするか図にすると違うのかもしれない。騎馬隊に必要な輸送物資の量、援軍としての物資の量など。
ガロウ・ラン以下
「31 ファイアー」(旧)
「20 火の水の砦」(新)
捕虜を拷問して殺してしまったり、拷問しても口を割らせられない拷問者は無能者、――だから拷問するにも自ずから限界があることを異世界の「倫理観」といい、過酷なことが書かれるが完全版では、
というコモン人の意識になって一層鞭を振るわせる。「この野郎! ガロウ・ラン以下のっ!」と、頭の中にその語が巡っているということだろうか。
ここのアンマとのやり合いは旧版のクロスから完全版ではミグニに交替している。
わたしは完全版を読んでから以後は完全版しか読み返していないと思うが、およそ迫水隊のメンバーの名前は時間が経つとクロス・レットしか憶えていなかった。読み返しているとたしかにクロスの台詞は多いが旧版のそれは完全版では別人に分配されているように見え、その印象は入り混じっているのかもしれない。
旧31新20。ここの「ベッカーラ」は新旧とも「ミラヤマ」の誤り。前回ドラ・ロウについてまとめたので、それより。やっぱり著者自身が地理を把握してないみたいじゃないか……。この巻頭の地図は完全版の際に新作されたんだろうしな。
文は新旧とも誤りで、訂正されていない。読者は注意して読んでいれば気づくが、今めくると同様の混同が後の文にもあるのでさらに混乱させると思う。その攻略戦になったらわかるかな。
テラビィ
テラビィ・ザムは、旧版2巻中に本文から彼とわかる挿絵がある。迫水隊の中ではイラストで個人が描かれている古参メンバーの一人。
鐙
今ふと気づいたが、『リーンの翼』作中、馬具の鐙 はこの世界にあるものとして普通に使われている。
『ガーゼィの翼』では鐙は存在せず、クリスが導入する。この「鐙の発明」は異世界ファンタジーのお約束エピソードになっているようで、わたしはそういう話を何度も小説中で見るのが今は何となく厭気が差すのだった。歴史知識とか、文化的優位性で戦争に勝てるみたいな意気揚々とした作者の気分は少し嫌いだ。近代戦術とか、兵站の概念とか、衛生観念の導入とか。色々あるな。
『オーラバトラー戦記』は馬や馬術があまり話題にならないが、鐙らしいものはどうもあるようだ。
読み返し。少し場面を戻って、オットバの鞭を払う迫水の剣について、左手でそれをすることに旧版では「いまの迫水の腕力」と言っているのは戦いを重ねて鍛えられているからにも読めるが、以前の章ですでに、迫水の身体能力の強化や治癒力にはリーンの翼の顕現がかかわっているのではないかと仄めかされていた。ここは、完全版ではその曖昧な示唆は省略されている。
オットバの剣をかわす迫水の慣性に反する動きに、オットバはリーンの翼の顕現!?と察してその瞬間に退散する。ヒーローが変身する前に襲い、「変身する」と気配を察したらすぐさま消えてしまう、したたかすぎる敵だ。
このときの迫水についても、空中で二段ジャンプのようなありえない動きをしたのは、目に見えていない状態のリーンの翼が羽ばたいたとも思えるが、迫水の常人離れした身体強化(筋力)のせいで、直角にターンするような……慣性を無視して見えるほどの運動をしたのかもしれない。航空機でいうと大Gのかかるとんでもない機動をしたかのような。
この春『ガーゼィ』を読み返す中で、ガーゼィの翼は「翼の靴」というアイテムは必要なく、クリスがいればクリスの足に直接生えるので、ひるがえってリーンの翼も、本当のところ靴は要ったのか要らなかったのだろうかと考えていた。旧版範囲のストーリーでは、これから後その話にもなっていく。
本当のところは翼の靴はいらなくて、心で飛べれば迫水も、迫水自身でいるだけで翼を顕現できたんじゃないか。『リーンの翼』はそういう物語にすればよかったと著者も思ったから、後のガーゼィではアイテムとしての翼の靴はあらかじめ廃止になったんじゃないか、とも、わたしは想像もしたんだった。
靴というアイテムは「象徴」、という考え方もある。もっともリーンの翼自体が象徴だと思えば象徴の象徴のようで冗長な装置かもしれない。
完全版後編の話も少し先取りをすると、結局『リーン』の中では靴は必要なもので、心ひとつでは飛べない。後には迫水とエイサップとで靴の取り合いのようなこともする。六十年間、迫水は戦場に出ていないほとんどの時間は靴を履いていないはずだが、魔的な道具と使い手の肉体との絆のような切れない関係があるのか……のように今ばくぜんと考えておく。
「32 青年二人」(旧)
「20 火の水の砦」(新)つづき
前回の戦いで手ひどいダメージを負った迫水は女武者メルバルの看護を受けることになる。またバイストン・ウェルで女性に裸を見せることの、迫水の羞恥プレイ的な趣向が若干戻ってくるようだが、それは置いて、
このこと。前回、鐙の話の連想で思い出していたが、ファンタジー世界の衛生事情を云々させる話は今わたしは目新しくは思わないのだが、バイストン・ウェルでは、『ガーゼィ』でも軍の環境改善のようなことをしていたのに、今度この箇所ではそういう地上意識をむしろ意図的に削除しているよう。
『リーン』のバイストン・ウェルは異世界で中世にしても、『中世にも衛生観念はあるんですよ』のような言い替えになっていると言えばいいかな。大げさに言えば、著者の歴史観がこの間に更新した部分が読める、と言いたかった。
テレパシーでからかう迫水
旧32新20、続き。
バイストン・ウェル物語シリーズや、富野由悠季の小説にかぎらず、戦記やロマンを物語っている間にも戦いの合間にキャラクター達が集合してこれまでの知識を寄せ合い、語る、ディスカッション、ブレインストーミング的な場面が挿まれるのは型。『リーン』の中では、これまでは迫水のアマルガンとの対話が主で、お互いの腹の内を探る中で新たな認識に至ったりして、戦いのストーリーの中に再びフィードバックしていくだろう。
今回は捕虜にしたガダバの士官ダーナ・ガハラマを相手。既にそこそこ長い付き合いになり始めているが、彼を食事には迎えても、今ここで懐柔しようという気は迫水にそんなにない。あくまで警戒を緩めないダーナに対して悪戯っ気が生じて彼をからかう気になった。「青年二人」というタイトルの若々しい気概のやり取りは結構面白いエピソード。
そこで、『バイストン・ウェルに初めて来たとき、ガダバの地にも行ったことあるのだ――』と、作り話を始める迫水について。読者は半ば忘れているだろうけれど、スラスラと嘘の描写をならべている迫水は、物語中この時点でもまだ、迫水はガダバの兵士とは流暢に現地語で喋れないはず。言葉の通じないところはテレパシーで意思を通じているとは思っていいだろう。テレパシーで、嘘をついている。
「テレパシーで嘘をつけるか」は、FTやSFの脈だと重要度のあるテーマだと思え、そのたびピンと来るのだけども、富野監督アニメや小説作品の中では、とくにそこに重い興味はないのかもしれない、と思っていた。
でも多くの作品を通読していると、テレパス的な問題をどうしても避けて通れなくなったか、作者の中でも徐々にそのことが浮上してきたかで、およそ逆シャア頃を境にし、新しい作品の中にはじわじわと入り込んできているように、わたしには見える。
富野アニメ中の蓋然論とか、道具としての言葉の使い方、といったテーマも含めて。そうなるともう文学論だが、むしろ富野を切っ掛けに文学にも入っていく、という読者の態度でもいいだろう。FTジャンルからの目線でわたしの興味のあるところだ。年代的に、ル・グウィンを参考にするとわかりやすいので再読に積んでいたが、ル・グウィンはまたわたしは億劫でしばらく停まっている。
つまり、原作者としても別の考え方もあるのだが本作中ではこれでまとめた、ということもある。
「民草」と言ったときの迫水の言い方はガダバ人ダーナにはわからず、
あえてテレパシー的な共感を書き足しているところは、完全版でのこれまでの配慮と同じ。
完全版で迫水の会話中のテレパシー要素に逐一書き込みが加わっていることは、後に、バイストン・ウェル滞在が長くなれば迫水はコモンの言葉による会話になじみ、かえって地上の、日本語を忘れていくという筋でもあった。これはずっと後の話を先取りしてしまうが。
「33 竜の脚」(旧)
「21 竜の脚」(新)
前章でオットバが火器工場から運び出した完成品の銃は、
増量。
完全版では物量をより多く書き改めるのはこれまで通例のようだが、小銃の弾丸の準備数は直接に脅威度でもあるその評価の違いでもあるだろう。三千発で何ができるか、とも思われたかもしれない。
とくに意味のない改変とはいえない。わたしはその知識がない。戦争というものは、一戦に弾丸をいくら消費するかの。
弾丸一万発=馬車二輛分の質量に当たるのかは、わたしは今その想像力がなくてわからない。
ダム・ボーテ率いる騎馬隊は早駆けを敢行、旋風(飆 )か山津波かという勢いで迫り始める。その最後尾につくオットバ隊も意気軒昂ながら、次々に脱落していく正規軍の騎馬を横目に「悠揚せまらざる勢い」で追尾する。
完全版の文章では上のように、なんだか不思議な書かれ方だが、旧版には、
とあり、疾駆しながらも慎重に運ばないとガダが暴発するのだった。はぐれ者の片意地もある。
旧33新21つづき。
恐獣との戦闘のあと、旧版ではビラッワルとの会話が完全版ではあらためてメラッサに振り替えられてあるのだが、
このメラッサ(ムスターマ)は新旧版の浮沈の間で影の薄いキャラ、のように前回書いたが、「影の薄いこと」をキャラにしつつある。
『リーンの翼』完全版1読了。
やれやれという気分だな。旧3でレビューを書き込んでいないが……無精にすると後からあらためてする気を起こすには壁になる。今夜はもういいだろう。
「34 揺れる大地」(旧)
「22 揺れ地」(新)
迫水はアマルガンと合流、迫りくるシュムラ・ドウ率いるガダバ正規軍、約三倍もの敵を特殊な地形で迎える。この章の内容は完全版の再編で文章の組み替えが目まぐるしい。省略部分の大きな点では、戦いの前に迫水がアマルガンの求めで全軍の前で「法定」を披露する場面が削除。劇的なシーンで惜しいといえば惜しい。
コモン界の黒歴史
開戦前、リンレイとビナーの身内談合の中、彼らの目からのアマルガン評。リンレイの旧側近の長老格のビナーは、アマルガンを発見した人物だが、その際には、フェラリオの力を借りてでも国盗りをたくらむというアマルガンの発想を買ったのだといい、
旧版ではこれだけだが、完全版ではそのアマルガンの「発想」について、
禁忌に触れること(タブー破り)、黒歴史と言う。黒歴史と聞いてはさすがに読者も驚くが、2010年頃に富野文ではもはやガンダムシリーズと無関係にその語が使われる。しかも、今現在に至っても、文中で黒歴史の語を(スラング的にでなく)使いこなせるのは富野由悠季その人以外にないだろうと思う。
シュムラ陣営の軍議から多少。
ダム・ボーテによる分析・予測には若干の修正。
完全版ではこの軍議の中で、リンレイの船団が遅れていることは開戦前にすでにガダバ側に通報されている。
トゥム、ネイラ・ザン、ノム
「35 惨殺という景色」(旧)
「22 揺れ地」(新)つづき
表現の違いだけでなく、ラとザの位置が入れ違っているのだが、たぶん完全版のほうが正しいのだろう。ボッブ・レッスに住む者たちについてはガロウ・ラン以上に不明。ノムについては、前章にもガダバには悪霊のような伝承があるとされていた。
前巻、旧25新16に、トランス状態になったリンレイが口走る台詞にあった。小説中では、わたしは他に見たような覚えがない。
ボッブ・レッスの存在はキャラクターとしては作中にろくに登場したことはないだろう。オーラバトラー戦記のクライマックスとか。姿形も定かでない。
サンライズ筋の記事だとトゥム、ネイラ・ザン、ノムはコモン界よりも地下にある界、その階層についてる名前としてある。
そもそも作中に登場したことはないからどっちだっていいが、コモン人にとってもその暗黒世界を呼ぶか、そこに住む悪鬼的存在のことを呼ぶか場合によって異なる。目の当たりに見たものは誰もいない、それくらい伝説的な名でしかない。「バイストン・ウェル物語」ではこの地下界一帯のことは基本的にどうでもいい。