リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
『リーンの翼』を読む。旧版と完全版の全巻揃えてあるが、わたしはこちら完全版(2010)の刊行のあとは結局新しいほうばかりを読み返す習慣になって、旧版はもうだいぶ読んでいない。手元にも置いていなかった。
この対読(新旧較べ読み)の仕方は、まだ考えていない。「二冊同時」にはわたしは難しいが、旧版を一章読んでは新版に戻ってもう一読は、やはり相当面倒くさいことであり、どうにか上手くしてみる。今はトピック立てまで。このあと。
今回、完全版は電子で併読する。 旧版は、いうまでもないレベルのこととして、全巻にわたり湖川友謙イラストを楽しむこともできる。ここではその紹介はたぶんしない。非常に良いもの。寺田克也による完全版もわたしは好きで、その併読は現在ではリッチ環境。
完全版の巻頭にはバイストン・ウェルの「コモン界・ヘリコンの地」の地図が載っている。忘れていたが……。わたしは読者として、バイストン・ウェルに世界地図があることはあまり意識したことがなく、大概行き当たりばったりな世界だと思っている(→心の世界の自然界)。 『ガーゼィの翼』には最終5巻になって唐突に挿まれるが、それは作中、最終決戦直前までの戦線の推移が若干ややこしい策略になるためで、世界観を提示する目的よりは矢印を見ながら各隊の進行を追うものだった(会戦展開図とある)。わりとわかりやすいのは、著者によるよりか編集の人が作成したんだろう。『ダンバイン』の地図も何かあった気がしたが、忘れた。
「ヘリコン」というこの地方の名は、旧版の時点ではたしかまだその名は設定がなかったのではと思うが、詳しくはあとでみる。主に2006以降アニメと、完全版3巻以降の加筆章から使われるようになる呼び名。
旧版の各章はローマ数字による通し付番になっており、六巻までに表記がややこしくなってくる。ここで言及するには煩瑣なので完全版同様に数字はアラビア数字で統一する。各章の章題は、また新旧異なるサブタイがついていることがあるが、それはその時に言おう。
今日はまだ1章も開いていない。電子なので完全版のほうはKindleリーダーを傍らに立てればいいんだな。
序文がない! 完全版はいきなり「1 オーラロード」から始まるんだった。
バイストン・ウェルの物語を知るものは幸せである。
以下、読んでみよう。
「人の記憶層の底の底に」というのは、もっと後の作品では「記憶巣」と書くんじゃないだろうか。逆シャア頃にはそのはず。
その意味は違うのか。深層・浅層のいみだから。 わたしは「巣」のほうの意味もわかるけど、脳のはなしなら「記憶野」と言ったほうが通りはいいんだろうが、必ずしもその生理的基盤の説明について言うわけではない。今その話はよし。
この序文……序章はかなり長大なもので8ページにわたる。バイストン・ウェルのまず構造について語るもので、その概念自体は、これを読まなくても『オーラバトラー戦記』を読めばそれと齟齬はない。
若干の言葉遣いの違いがあるかもしれない。ここではコモンと呼んでいる存在のことは、本編と後のシリーズ含め、おおむね「コモン人(びと)」と呼ぶだろう。種族というよりは魂の有り様というニュアンスでコモンと呼んでもいい、みたい。
文章は結構ぐいぐい来る感じで、好きな人はこれが好きなのだが、わたしは先日たまたま『∀の癒し』で、劇場版のかなり駆け足とはいえ「∀ガンダム」本編もみていて、それと比べれば相当に硬い文章……。富野監督自身の文でも、もう10年たてば全然違ってくる。それがわかった。
面白いのは、この序の章末――『バイストン・ウェルは魂のマスカレイド(仮面舞踏会)。』、この表現はたぶんここにしかない……?
バイストン・ウェルは魂のマスカレイド。 オーラ・ロードは、その魂のマスカレイドをのぞくためにひらかれた、肉ある者への道。 しかも、そのオーラ・ロードは、世界の綻びの道……。 その道が、四散した時、人の世界は、現ポイントから霧消する。 それ故に、バイストン・ウェル、人のオーラによって支えられた世界は、震える。
「魂のマスカレイド」はAB戦記中にもあるね。先日来、わたしはトミノ的にこのモードが入りっぱなしで、この序文を読むだけで共振して震えた。今、ここまでにする。この序文はほんとに完全版のほうにないのかな。
この通読ではページや「ページ数」について言及していないが、先程の序文の「8ページ」と言った場合でもこれ、カドカワノベルス本は上下二段組の本文でスニーカー文庫より密度高いからね。字数では、ベルチルやハサウェイの約5倍、10000字ほどある。
そんなこともあって紙面や底本のページ数にはあまり触れない。紙媒体か電子かという話では、わたしは、これに限らねばとくに物理ペーパー礼賛主義者じゃない。わたしの態度などここであえて蒸し返すまでもないが、観念的でなくありていに現代の環境というものを言えば、電車の中ででも剥き身で『リーンの翼』など読んでみて言うことだな。
ちょっとまってくれ……。1章のしょっぱなから全文が全然ちがうじゃないか。同じ状況、同じ行動を記すにも全て新たに書き替えているのか。わたしは、旧版をまず読んでいて後から完全版を求め直したが、交互に読んだわけではなく新旧がここまで違うとは思っていなかった。
「どこが違う」「ここが省略」というメモで済まない全部じゃないか。わたしは見込みが甘かった。これ1章だけなのかな。
同文でも叙述の順序を変える。時制も違う。それで新旧で「作家の文体が変わった」ようには全然掴めない。字数を圧縮して早回しするに加えて、二三の新たなエピソードを挿んでいるのだが、わたしはいきなり、富野由悠季が二人いるのか! のような驚嘆してしまった。
ふつう、こうした再編をするにも、事件を一つ二つ省略するとか、章を省略するとかで、全面的に文章を書き替えてするか? 印象としてはちょうど、富野アニメの劇場版編集の手口のようで、先日まで『地球光・月光蝶』にかかっていたので二周して腑に落ちるような感覚だった。
大事な追加エピソードは、迫水の父のプロフィールと家族について、文金高島田の人形のこと、かな。始めからびっくりしてしまったけど、1章の間に慣れてはきた。6巻までの対読はこれだと時間かかりそうだな。今ここまでにしよう。
わたしは、これもたまたま先日まで、神林長平の『戦闘妖精・雪風』の新旧読みをしていて、それは何周もしていることで端々の違いを気にして旧版を読んでいたのだけど、それくらいの異同だと思っていた。驚いたな、『リーンの翼』は当たり前に読んでいるつもりでこんなことを知らなかった。
富野話題を少し戻って、「スーパーサイコ研究」の題でこれまでの思案を幾つかおさらいのようにしていた。 リーンでは、この中で触れたジャコバのこと等あるが、1980年代と20年あまり後とではどう違っているのか注意する足しにはなるだろう。1章読んだ感じでは、わたしはやっぱり、あまり分からないのではないかと思う。
「天空のエスカフローネ」OST1, 菅野よう子/溝口肇 (1996)を聴く。
「王の心」「ブレンパワード」「∀」まで、菅野よう子音楽続きで今度は数年遡る。パロディなのか本気なのか、半笑いではまる、呆気にとられるような90年代アニメ音楽の傑作のひとつ。今聴くが、わたしはこのエスカサントラはもう長いこと聴き返したことがない。
「エスカフローネ」の世界を「女の子のバイストン・ウェル」のように思ってるわけじゃない。というか、そんなにはない。真綾声の美井奈、みたいな、鬼畜生みたいな連想したくないし、人にもさせたくないしな。
『リーンの翼』とは関係ないが、せっかくだからこれをしばらく聴きながら読むとして、樋口康雄音楽にも後で言及できればいい。
話は少し戻り、『∀の癒やし』中で富野評になる菅野よう子像には、「天才肌、才能」「女性の生理(感性)」もあるが、「アニメが特別なものでなくなっている世代」ともいう。そこは谷村新司についてと併せての章で、富野監督の立場からそう見ているのはわかる。わたしらからすると、どういう意味なのかは注意したい箇所ではある。上のような話。
それも、今にならないとわたしは思わなかったろうから、そのつど書き込んでいくだけだ。ネットに菅野よう子評というのは多いと思うから、わたしはそれに深入りせず。
「2 勇者アマルガン・ルドル」(旧) 「2 ミン・シャオの逆襲」前半部(新) 章題を挙げるだけですでにややこしくなってきたな。全てを舐め尽くすようにここに書き込む気はないが、取っ掛かりのややこしさだけでも自分で整理したい。
新版(完全版)は字数を圧縮して展開をスピーディにする意図があるのは当然のよう。ただ描写を削るだけでなく、叙述の順序なども置き換わり、語法も違うことは書いた。漢字表現がひらがなに砕けているのは時代的、または著者の変化のようかな。『小説V』の頃に急激にひらがな実践の時期がある。
字数をいうと無論のこと、旧版の方が表現に文字が費されている。比較して、完全版に圧縮されて不満な点というのはまず、ない。それを見較べることが「すごいな」という意味で比較する価値は、ある。
細かいことでは、アマルガンの身格好を見ながらすでに迫水に憧れ感情が湧くとか、洞窟を出るまでに剣の型を一度思い出し、出てからまたあらためて洞窟に戻って準備するところが、完全版では一気に砂漠を行くところから章が開く。
ハロウ・ロイへの羞恥心が強いことと……ハロウの「死人のような美貌」というイメージは完全版に省略されて惜しいかな。
コモン界の馬について。くり返し。 「サラブレッドの洗練さはない」(旧) 「横浜の郊外で見かける農耕馬にちかいもの」(新) どういう違いなのかというと、少年迫水がサラブレッドの競走馬よりは、農耕馬を見知っている。
馬の角について。 「ゆらゆらと上下する馬の額の真直ぐでありながらねじれを持った角」(旧) 「三角の角をせっせと上下させる馬」(新)
迫水は唐突にゴビ砂漠めいた光景を目の当たりにしても、混乱や不安を感じる余地のない圧倒的な実在感の只中にあって、ファンタジーにありうる「まるで夢を見ているかのような実在感のなさ」というのでは、ない。すごくリアル。かなりの間は異世界という概念もなく現実としか思えない。
太陽がないことに気づく。完全版ではアマルガンが一言挟み、バイストン・ウェルでは燐塊(たいよう)のことかという。燐の光のような表現はシリーズ作品でいうが、このルビは初出か。完全版の迫水はアマルガンに敬語で話す。
砂丘に昇ると、集落が見える。旧版では二、三十キロ先にあるものが、完全版では数キロ先にある。
横浜育ちの迫水にもアマルガンとハロウの人種がわからない。旧版では「異人種」だと思う。完全版では、迫水の知る白人よりは中近東の肌色に見える。上の、死人のようなフェラリオの色みはそのように省略。
言葉のちがいとテレパシーの介在に気づかずにしばし混乱。 アマルガンの国の名はツォ(旧)、またはシィ(新)。
「シンの住む世界では日本語で済むわけなのだな? 我々と同じこの言葉で」(旧) 「シンの住む世界ではニホンゴではすまないのか?」(新) ここは旧版の文意が誤りらしい。
「?……違う言葉を話す人とは、話ができないのか?」 「できない。はい、か、いいえも分らない」(旧)
「ちがう言葉を話す人とは、話ができないのか?」 「はい、か、いいぐらいしかわからないものです」(新)
対読といっても、こんな煩雑なことをするのがわたしの主旨ではないから、このあとはもうちょっとポイントを押さえて読みたい。
ハロウの「死人のような美貌」というのは良いところ。そういうところだ。今夜ここまでにしよう。
フェラリオの美女ハロウ・ロイに対して迫水は、自分の男立ちのできなさを慚愧の思いで噛みしめる。彼女は、レイプされていたので、どちらが恥ずかしいかといえば彼女のほうだが、という、読者によっては目にきつい文章が入ってくるかもしれないが、わたしは暴力やゴア表現等にはそれなりに慣れてはいて、こういう言い方はそんなに嫌いじゃない。それなりに好き。
それとべつに連想したのは、小説通読ではこのまえ、年譜ではずっとあとの『V』のカテジナのことで、再会したあとにカテジナの当たりのきつさ、カテジナ目線からのウッソの鬱陶しさは鮮明になってくる。最初から迷惑だと言っているけど。その際に、もしもウッソが、 『でも僕はカテジナさんの命助けましたよ』 とは、言わないだけまだウッソは我慢してるじゃないですか……のように、思ったのを思い出していた。
迫水が恥じるくらいならハロウのほうがずっと恥ずかしいよ、の連想。 その話は『リーン』に今関係ないのだが、……そんなに嫌ならウーイッグで助けずに死なせておけばよかったですか? とは、ウッソでなくても、そんなことを言えるのは人間じゃない。
ではカテジナやクロノクルの現在に陥った状況は、もしもどこかで違う選択肢を踏んでいればもっと救いのあるものだったか、は、どの瞬間にもそれはなかっただろう。どうしようもないところで空回りしているから彼彼女は必死になるほど客観的にコミカルに見える、喜劇になるという話をした。
それはブラックユーモアで書かれているので本当にそうのはず。だがもうひとつチャンスは、「それもまたエンジェル・ハイロゥの空域で起こったことだ」というのはあり、エンジェル・ハイロゥのエリアでは、現実に逃げ場のないシチュエーションでももうひとつそれを超えうる、と作者自身が書いてる。そういうところを読者が利用してもいい。批判的読書には余計なことを書くだけわたしは気が優しすぎるよな。
ifなどは……この時世では世間はそれが見たいというだけの話ではありながら、古典原典は大事とはいいながら今見たいのはこっちだよねという形で、「トゥルーエンド」という言われ方にもなるだろう。そこは世代相応というもので必至ではある。「スーパーサイコ研究」なんかを発作的に思ったのは、わたしはまたそういう気分が差したみたいだった。わたしは「アムロが父親代わりのようになっている図」というのは嫌いだ。それはかなり強硬にきらい。
わたしのは、そこにファンの願望語りの本性がわかっているからいやだ、反抗するという、それ以外の理由じゃない。
カテジナのことは、通読していれば前回エイシェトのことで腑に落ちるものがあった。ハロウ・ロイまで救いたいと言いだすやつはいないから、それは取り上げた。
フェラリオなんか助けなければいいのに、生かしておかなくていいのに。『ガーゼィ』のように事情があって出さなくていいなら、最初から出さなければいいのに……とは、古来、コモン人もたえずそのように思い知る経験をくり返して掟になっているんだろう。
「フェラリオの話はしない」がわたしの表向き態度で、すれば決まって自堕落な話になるのがわかっているから。
「3 ミン・シャオの逆襲」(旧) 「2 ミン・シャオの逆襲」後半部(新) 旧版、前章末から迫水が霊感じみた警戒心で集落の様子を怪しむが完全版ではそのくだり省略して入っていくのは、怪しいことは怪しいがその場で言っても始まらんというアマルガンの態度を地でやっているようで面白い。
相違比較に目を留めると、その行で考え始めて止まってしまい、読み進む気がしない。
「ハロウ・ロイは臆することもなく座り、ゆったりと食堂を見廻した。」(旧) 「ハロウ・ロイは臆することなくすわって、ズタ袋やら木箱が積み重なった食堂をうっとうしそうに見廻す。」(新) ハロウの態度は若干、生っぽくというか、俗っぽくなっているのかもしれん。この場所は小汚く煩い場所だが、鬱陶しい場所を鬱陶しげに見廻すフェラリオはやや普通の人に近い感覚のよう。
〝六十燭光以上あるな……それが三つもついているのか?〟(旧) 〝六十燭光以上ある……それをふたつもつかっている……〟(新) 迫水時代の感覚では贅沢な照明だと思うが商売処だから一般家庭よりは当然なのかもという理解は共通。60キャンドルかける3か、2か、というちがいは、わたしは正直に文章から区別がつかないのだけど、そこは著者として一個減らしたかったのだろう。リアリズムのこだわり? 何故?という想像を、新旧読者にさせるため? 半分、にやにや気分で読んでいてミン・シャオのことはどうでもいいやのような。
上のように、漢字をひらがなに崩しているのは全体。また、「座り」を「すわって」のように、「って」と少しやわめの接続を多用するようになるのが富野文の新旧の特徴が出てる。
「~が、~~って、~~して、~~なのである」 というある種、だらしない文章を作る。昔のほうが生硬でガチガチしているから、研究のうえでわざとこうしているんだ。わたしは、富野節の真似はしたくない。真似するとばれるからで、わたしの場合ひらがなを気にするのは投稿文の視認性から。
昨夜まででまだ1章と半だけど、ファンタジー読みだったら前章のハロウの死人のような美、異界美、などは落としたくない。勿体ないじゃないか。でも全文に書き下ろし描写は満遍なくて、それだけが目を引くわけじゃない。全体のバランスからみて、ここは減らしておいて、後で盛りますという計画でされている再編集のうちだろう。それは、自分で書いた旧原作がもともと傑作でなければ問題にされないから、その実績ありき。
ここまでは原理原則、型通りです。これを踏まえて、型破りに行きます。 言うのはいいけど、衒いなく言えるには自分に確固たる実績がないと恥ずかしくて言えない。くっそ大人が……という悔しさになるのが分かれば子供はまだまし、という話だろうか、だといいな。わたしだってリスペクトよりは憎々しい思いがする。
『アニメを作ることを舐めてはいけない』のタイトルを「信じてはいけません」のように曲げた読み方は、考えられない。建前で本当は舐めてもいいですとは言ってない。常々の仰りようから、著書当時にさえ『今まで舐めていたと思う』との含意で言っているとは思える。『舐めたいものはまだある』もか。
わざとらしい作為のあるタイトルで、内容をみれば他の題はもっとありそうだろう、と読者は思うんじゃないか。
続き。宿屋での身支度のうち新たに調達した革靴のこと。完全版で全文書き改め、一揃いの同じ靴を描写しているのに全く別のことが書いてある。新旧の文章を繋げれば設定が細かくなりそうだ。
新旧ではっきり異なるのは、旧版では革紐を通して足首に固定する仕様なのが、完全版では革紐に替えて左右二対の骨質の鉤で前合わせにする。 海軍支給の半長靴よりなじむ。旧版では、飛行靴より零戦(れいせん)に似合う靴ではないかと迫水にこだわりがある。旧迫水はこれを「いい靴だ……」と呟き、足固めして床を一二度踏んでみて「いい靴だ!」とくり返す。新迫水はそれらの履き心地を確かめたあと「いい靴だ……!」という。
説明しないが、富野監督はたしか零戦は「れいせん」(ゼロせんではない)の読みにこだわる方だったと思うが、はっきりそう言っていたかは忘れた。作中のルビは上のように振ってある。
アニメ化したときに靴の新デザインが決まってそちらを描いているんだろう。
「拳銃ぐらい持ってくるのだった……」 迫水は、自分が特攻行のために拳銃一つ持って来なかったことを初めて悔やんだ。(旧)
前々章、洞窟でも同じ後悔をしているので初めてではない。完全版では削除。
夜襲。階段を降りきらない間に闇打ちを受け返し、テーブルに飛びのった迫水の靴は滑りもしない。その体勢で剣は後に流れたままだが、それが背後の敵への牽制にもなる。最初の敵が仲間への合図の擬声を発する。その声めがけて、すかさず迫水が攻勢に移る。
敵の一瞬の隙に、テーブルを蹴って、右から左上に剣が切り払う。重い衝撃を受けて右腕が止まり、同時に(どうじに)両足が床を踏み、右で支えている柄に左手をかけ、
影が呻く。人を斬ったのか! 乱刃が舞って見える間にアマルガンが横切り、前に立つ――わたしは剣術小説の専科でもないがこの手順はかなり細かく、しかも新旧でアクション自体はほとんど違いがない。剣を入れたあと切っ先が流れるか、切っ先を引くかは、迫水の腕前の評価のちがいだろう。
直心影流の古流の稽古は無駄ではなかったらしい……。徳川時代以来の道場剣法の価値については、ここではネガティブ評価。前後になるが『ガーゼィの翼』で前回長く読んだ。「近代のスポーツ剣道からの実戦移行」について、平成の剣道少年クリスをモデルにして詳しい。そこでも登場した示現流については、旧版では「自源流」として紹介されている。
直心影流自体にわたしは詳しくていってるわけでなくて、迫水の師匠が、迫水には竹刀稽古をさせずに木刀の素振りと実戦の型だけを教えたので、古式。クリスはスポーツ発、新式。
「ミン・シャオの逆襲」おわり。 ミン・シャオに謎の「っさ」という語尾のキャラが付いたが、彼女の完全版の口癖でとくにガロウ・ランの習慣でもない。
倒したガロウ・ランにアマルガンがとどめを刺していく。この説明も旧版の文章が長いが、ここでは儀式や、苦しみを終わらせてやる慈悲をまじえた行為ではなく、倒れた敵が正気づいて反撃する場合が多々あるための、あくまで戦場における防衛的行為と強調される。「とどめ」についても、バイストン・ウェル物語ではシリーズを通して長い話題になることもいった。今夜ここまでにする。
「4 街の夜」(旧) 「3 街の灯」(新)
戦陣訓の読み上げから。引用文は旧版のほうがやはり長い。 本文の要旨については前章・前々章にくり返し、日本軍の精神的土壌を述べるに、軍国青年各々は大局を読める立場(地位)にないこと、必殺の新兵器で大敵に勝つ/勝つまで已まじの高揚感(ハイ)、精神論に加え、他者(諸外国)に対して自己を顕示させなければ潰されてしまうという強迫観念を挙げる。おおむね同じ。
この「著者の歴史認識」というもの自体が、1984年から2010年までの間に進展や変化があるかはここを較べるだけでは一瞬では読みきれない。「この文は旧版にないな」と思っても、前章で書いてなかったことが後章に補充されていることもあるから……。 完全版の文中には、「特攻隊員を生き神様とたたえて見送る女たち」がチラリと挿まれている。これは前にも触れた文金高島田の特攻人形にかかわる要素。
歯ブラシには「豚の毛らしい」と補足されている(新)。富野作品では歯ブラシは大事なので読者は憶えておくといい。
商家のあるじキャプランからのバイストン・ウェルの世界についての講義のうち、水の世界(ウォ・ランドン)、闇の世界(ボッブ・レッス)には旧版のルビが完全版では省略されているが、そういう些事はスルーしていいんだろう。
空の燐について。夜空には星のように見える「リン」というものについて、迫水は「燐」「鈴」「鱗」の漢字の連想をして、旧版では「鈴」が正しいのではないかという感性を示す。それが好きだなと思っただけ。 完全版では、「鱗(うろこの字)」と思ったときにキャプランとハロウが魚のようなイメージを送ってくる。とくに説明はない。
『リーンの翼』中にあるか忘れたが、バイストン・ウェルの言い伝えのうち、空の燐のまたたきはコモン界より上の界ウォ・ランドンの海を泳ぐ深海魚の鱗の光だという説がある。手元では『オーラバトラー戦記』にその話がある。
『ガーゼィの翼』の巫女ハッサーン・サンは世界をわりと即物的に現象として(物語でなく)捉えていて空の燐のことはエネルギーの塊としてイメージしていた。それも、魂の光の集まりだというが……。バイストン・ウェルの太陽と月とは、燐の大きな塊で、昼の太陽は「太陽」と呼ばない。燐の光という。夜の月は、とくにこだわらずに月と呼ぶことがあり、満ち欠けもする。
特攻人形のことは、この1巻の序盤でまだ書くことではないけど、ここまでも迫水は日本軍の当時の姿勢態度等がバイストン・ウェルに来て客観的に見えてしまったために、やがて故国である日本との精神的な繋がりが切れがちになっていく。自覚的に、なんとか日本人としての意識を保とうとするが。
のちに続々とバイストン・ウェルに落ちてくる地上人と情報交換するようになれば、ますますその時代認識を補強でき、あの戦争はなんだったか、自分はなぜ死地にやられなければならなかったのかと自問すれば今は異邦の流謫者として正確に説明できてしまう。特攻人形の印象は後にはほとんど忘れるが、微かに微かに留めていて、そういうものを最近ここでは風土と呼んでみていた。ここの通読している間にもわたしは風土なる言葉を全然思い出さなかったので、それはそれで意外だった。
ハッサーンのことを書いてふと思い出したのは、『リーンの翼』の後の時代に出てくる迫水の後妻、コドールには、アニメと小説を読むだけでは良い印象を持たれないと思うが、彼女の抱く地上界への切ない憧れの気持ちには、ハッサーンの面影があるんだ……。そう思うと彼女ももう多分憎めないな。
4章おわり。フェラリオとフェラリオ中だが章の区切りなので今夜ここまでにする。
〝なら、好きにやる……〟こういうところがわたしは本当に可愛いと思うが、自堕落な子だ。 これらの美しい場面は、自堕落は別としても少しでも長く読みたいという情は察せられ、そういう読者は旧版も読んでいいのではないか。そう言えばいいのか。
わたしは、趣味をいうと口淫って好きじゃないのだが、前後にいくところまで書き込んでいるのは旧版のほうが良い。
ほか、迫水の父についての言及が処々に補強されているのも完全版の意図のひとつだろう。 よくいう、富野由悠季の父子関係がどうとかではなく、もともと旧版の迫水の素性が常人離れした部分があって、幼い頃から古流剣術だったり戦陣訓の話にしても当時の青年軍人としても周囲以上に理想的で熱血だったりするので、生身のエピソードが足りないと思われたんだと思う。
「5 剣」(旧) 「4 剣」(新)
前半まで。完全版の字数を詰めるリライトをしている以外にほぼ大差ないが、あえて手を加えないことに感心するような気分。少し気になったところは、完全版に、一度萎えた迫水にハロウが乳房で愛撫にいくというテクニックが加わっている。旧版では愛撫、とのみ。
旧版で迫水が叩きつける「切り札」の台詞は、完全版ではごくごく穏やかなニュアンスに崩されている。迫水はフェラリオの種族について未だほとんど無知だが、その蔑視を吐き捨ててしまったことは、省略するには惜しいかな……。
わたしは今夜もう疲弊していてここまでにする。
お互いの間で本当は言ってはいけないこと、言わない約束のことを「切り札」というのは、わたしはちょうど最近、ジークアクスのマチュとニャアンの関係の想像をしているうちに、例の割れたスマホのことを切り札と思っていた。のを自分で思い出してしまった。
公式にどうという解説があったわけじゃないけど、あのスマホは割れたままにしておくのはマチュとニャアンの間の「絆」になってるんだろうな……というのはわかる、かな。そのことはむしろ、シュウジには関係ないことだろう。三人の関係にもそれぞれ、重なる部分とズレてる部分がある。
サイコBLの話を一日考えていて、やはり今ちょうど迫水のところでもあったので思い出す。
ハロウ・ロイの肉体のなされるままにされ、足腰立たないほど弛緩してしまった迫水は「これでは男ではない」と愕然、慄然と思う。これまでの章にも、迫水の思念のうちには、――男は犯されるものではない、男の狂態は晒してはならない、男として死に体だ、――とバイストン・ウェルに来てたびたびに自戒と慚愧をくり返している。
女性に対してはとくに、女が乱れてはならないとは思っていない。
女のように男が乱れてはならない、というと女性蔑視のようにも思われそうではあるし、実際に時代的には男女の隔て観はある。それとまた、美意識として「女の乱れぬくことは美しい」とは常に語られても、男の崩れは様にならない、滑稽に落ちるという文化も、男女の身体の作りの生理的事情も実際問題ある。
女性蔑視だけのことではないというが――今度は女性から見ると、「女は乱れていい、男は別だ」と格好を繕おうとする男は、やはり腹立たしいかぎりの態度ではあり、そんなガードは引き捲って男も乱れ狂わしてこそ女冥利でもあろう。ハロウが衝動的に怒りを覚えるのはやむないくらいだと思う。
迫水の男女観は、そうは言ってもやはり相当に古い。1945年当時の青年軍人の標準からも異常なほど古武士的だろうとは前章までも思った。上に、ジークアクスの連想を書いたばかりだが、2025年現在の少年だったらもっと自由な態度だろう。……とは、現在、ふつうに概ね言われることだろうと思う。
事実はどうか知らん。女と男が区別なく語れることが「自由」か? 現代の男子高校生だって「女と男ではちがう」意識はないわけがないとわたしは思うし、文化としても、視覚映像ジャンルのキャラクター男女差の描かれ方などはむしろ誇張され、強調されて見えていたりする。男装女装などについてもあれこれ言える話題はあるだろう。
男の子・女の子はイーブンだよ、と言いたい人は良いとして、「それはそれとして、そのコードはあるよね」という踏まえで、女子の口から「もっと自由になっていい」のような台詞を男の子がどう聴くだろうと想像しても可愛い。男子から女子に手引きする場合には言えたことでも、それを後に女子から男子に手ほどきし返されれば、男子には加わる愧じらいはあるんじゃないか。
ボーダーに目を向けるよりは、セクシャリティという言葉遣いを選んだほうが、上の話については多分いいだろう。前回連想するのは『∀の癒やし』より。フェラリオと、リンレイについての場合はまた、どうだったろう。
しかし、そんなかすかな想念も、遠く聞えてくる迫水の気合に砕かれてしまう。 迫水の気合が耳に届くたびに、ハロウの体の中の空気がほんのりと動き、沈潜する。 これは、ハロウに空になれと呼びかけるフェラリオの国の長老ジャコバ・アオンの言葉に似た響きがあった。 〝なぜだろう……〟 ハロウは、漠然と思う。(旧)
そんな想いは、とおく聞こえてくる迫水の気合いに砕かれて、さざめけば、その波立ちが、空になれと呼びかけるフェラリオの国の長老ジャコバ・アオンの言葉に似た響きに感じられて、〝なぜだろう……〟と、漠然と思うのだった。(新)
水の妖精のようなエ・フェラリオの体内の感応を、さざめき、波立ち、とリライトする手慣れた気分は好き。 ハロウ・ロイは、自分は迫水に触れて浄化されはじめたのではないか……(ないかしら)と思えるようになっていたが、それがわずかの後に彼女の命取りになるのだろう。
そういうとこ読むことを精読として今度の通読は始めたの。おそらく、両版を持っていて読んでいる人でも、その一々に仮に目を留めはしても、書き留めてはいないだろう。
富野由悠季の文体はどういうものか、という解説が、主流の文芸評とか雑多な読書レビューに任せて永久に明かされないような不審感ってある。
ここなどは、見るからに複数の文章にわたる描写の内容を「――て、」「――ば、」「――が、」「――て、」と繋げて一文にしてしまう。上では「だらしない文章」とも書いてしまったけれど、やわらかく弾力的に口述をつづけていく独特のリズムを作っているのは90年代以降に好きそうで取り入れているらしい。当時に何がきっかけでそうなのかは、わたしはわからない。たとえば、そういう例にはなる。ほかにも見たいところはあるはず。
そうだな、「口述」だよ。この文体。そういうイメージ。
旧版5章まで。完全版では章を改めずに続く。今夜ここまで。
量的にはほとんど読み進めていないけど。上のようなことを迂闊に書き込むのはネットで無用なことだ。「文体」とか書いたらそれだけでもうね。 ここの、稽古の後のキャプランからの「餓鬼の剣術」との痛い指摘は完全版で省略だが、わたしの記憶にはあるし、後章に補足だったかな。ヤエーッと大声で稽古しているだけで敵からは観察してくれと言わんばかり、とのような。
「6 報復の血」(旧) 「4 剣」(新)つづき
迫水の新しい戦闘支度には旧版では革の帽子に鉄片を仕込んだ兜様のもの、完全版では飛行帽の上に革兜を被ってこの革兜の仕様が同様のもの。この、元からの飛行帽をいつまで持ち歩いていたかはわたしは記憶にない。
章おわり。旧版では章末にムラブとミン・シャオの幕間が入る。
この剣戟のシーケンスは段取りはそのままにタイミングが変わっていることがある。
最後に矢の斉射をかわす際には迫水は数メートルを跳んだ(旧)のが十数メートル(新)に割増されている。
また呼吸について、どこで息を吸って吐いたか補われている。剣法小説では呼吸は必ず重要なのだが、わたしは読者としていつもよく分かって読んではいない。 完全版では、最初にガロウ・ランから分捕った青竜刀はこの戦いの初めに左右に持ったあと、ゲリィを救ったときにはもう捨てているらしい。いつ捨てたのか迫水も憶えてなく、以後出てこない。
ハロウ・ロイを哀悼なんて富野読者がネットですべきでないが、結局のところわたしは最後までフェラリオについて気にかけていた。
「7 聖戦士」(旧) 「5 聖戦士の居場所」(新)の冒頭
迫水は前夜の戦いでガロウ・ランを六人斬った、人殺しの感覚がようやく蘇り始める。殺人体験についてはバイストン・ウェルで各シリーズにくり返すが、迫水の反芻する殺人の感覚は文章上でも生々しい(うどん粉)。
はっきりPTSDという問題になると、現在は一般書でも戦争の心理学に一ジャンルがあり、昨年までに瞥見なりとおさらいはした。そういうの読み聞き知るにつけ現代に基礎知識として知られておかれたい、不安はあるものの、わたしは富野作品の枠を出て紹介する気ない。70年代頃には小説界にテーマとして浮上しているらしいことは言ってる。1983年というのはそれでもかなり踏み込んでいると思われる。それを言えば、迫水とクリスの過程は比較するのに興味深いものだった。
その話のあと完全版は次のシーンへ移ってしまうが、旧版ではその夜、迫水は反復する殺人感覚を酒飲みに紛らしながら、アマルガンに対してこれまで聞かなかった事々を問いただす。半ば鬱憤をぶつける。
旧版7章の内容はかなり長いが、これまでのくり返しの内容も多く含むから省略になっているんだろう。部分部分はこの後の章に散らばっていくのかもしれない。再読なので、その箇所があれば気づく。
アマルガンの素性を訊ねる。義賊アマルガン、という世間的な押し出しの裏に、アマルガンはアマルガンでまだ公開しない正体と思惑があるらしい。そのあと話が転じて、日本軍の「戦略」についての話が始まる。
日本軍の話はこれまで、当時青年の精神的テンションを重点にしたが、ここでは、あの戦争をするにあたり戦争に勝つための戦略というものがあったかと、その責任は指導するインテリ層にあったのではないか。飛行機熱と血気に逸っても俯瞰的な視野を持てなかった青年が迫水であるは、くり返し。
強剛な武人であるとともにその同じインテリ臭を感じさせるアマルガンという男に警戒心を抱く。また自らは生まれの素性も、インテリ的な気質も厭う節のあるアマルガンはリーンの翼を「力の象徴」として語る。旧版はここらでリーンの翼の意味が浮上してくるみたいだが、完全版では前倒しで点々とその言葉は聴いていたようだ。
酔っているところにゲリィ・ステンディが差し入れ。ゲリィが手にするカンテラは、虫籠に数十匹のホタルを詰めたもの。シリーズでこのホタルランプは、ダンバインに出ていなかったかな。またよく憶えていないけど。
このホタルは実用品なのだが、文字で読むかぎりではなかなか風流な代物。海外ファンタジーだと、この種の生き物照明といえば「ツチボタル」(グローワーム)のほうが定番で、わたしはその出典を小説で見るごとに手元に収集していることがある。
近代までの剣客・剣豪の話にも、あたら達人でも初めて人を斬ったあとに、その夜、刺し身を食っていて嘔吐してしまい、それで再起も難しくなったのようなエピソードは点々とあり、古くから知られていないわけではない。
それが社会問題になると認識されていなかった。古くには宗教が戦士達の心のダメージを補っていたらしいことも、それを研究テーマとして意識されているのもごく最近のようだ。
リーンの翼とガーゼィの翼の意味に違いはあるみたいだな。ゴゾ・ドウがそれをどう評価していたかが今から気になる。
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『リーンの翼』を読む。旧版と完全版の全巻揃えてあるが、わたしはこちら完全版(2010)の刊行のあとは結局新しいほうばかりを読み返す習慣になって、旧版はもうだいぶ読んでいない。手元にも置いていなかった。
この対読(新旧較べ読み)の仕方は、まだ考えていない。「二冊同時」にはわたしは難しいが、旧版を一章読んでは新版に戻ってもう一読は、やはり相当面倒くさいことであり、どうにか上手くしてみる。今はトピック立てまで。このあと。
コモン界・ヘリコンの地
今回、完全版は電子で併読する。
旧版は、いうまでもないレベルのこととして、全巻にわたり湖川友謙イラストを楽しむこともできる。ここではその紹介はたぶんしない。非常に良いもの。寺田克也による完全版もわたしは好きで、その併読は現在ではリッチ環境。
完全版の巻頭にはバイストン・ウェルの「コモン界・ヘリコンの地」の地図が載っている。忘れていたが……。わたしは読者として、バイストン・ウェルに世界地図があることはあまり意識したことがなく、大概行き当たりばったりな世界だと思っている(→心の世界の自然界)。
『ガーゼィの翼』には最終5巻になって唐突に挿まれるが、それは作中、最終決戦直前までの戦線の推移が若干ややこしい策略になるためで、世界観を提示する目的よりは矢印を見ながら各隊の進行を追うものだった(会戦展開図とある)。わりとわかりやすいのは、著者によるよりか編集の人が作成したんだろう。『ダンバイン』の地図も何かあった気がしたが、忘れた。
「ヘリコン」というこの地方の名は、旧版の時点ではたしかまだその名は設定がなかったのではと思うが、詳しくはあとでみる。主に2006以降アニメと、完全版3巻以降の加筆章から使われるようになる呼び名。
旧版の各章はローマ数字による通し付番になっており、六巻までに表記がややこしくなってくる。ここで言及するには煩瑣なので完全版同様に数字はアラビア数字で統一する。各章の章題は、また新旧異なるサブタイがついていることがあるが、それはその時に言おう。
今日はまだ1章も開いていない。電子なので完全版のほうはKindleリーダーを傍らに立てればいいんだな。
バイストン・ウェルの記憶
序文がない! 完全版はいきなり「1 オーラロード」から始まるんだった。
以下、読んでみよう。
「人の記憶層の底の底に」というのは、もっと後の作品では「記憶巣」と書くんじゃないだろうか。逆シャア頃にはそのはず。
その意味は違うのか。深層・浅層のいみだから。
わたしは「巣」のほうの意味もわかるけど、脳のはなしなら「記憶野」と言ったほうが通りはいいんだろうが、必ずしもその生理的基盤の説明について言うわけではない。今その話はよし。
この序文……序章はかなり長大なもので8ページにわたる。バイストン・ウェルのまず構造について語るもので、その概念自体は、これを読まなくても『オーラバトラー戦記』を読めばそれと齟齬はない。
若干の言葉遣いの違いがあるかもしれない。ここではコモンと呼んでいる存在のことは、本編と後のシリーズ含め、おおむね「コモン人(びと)」と呼ぶだろう。種族というよりは魂の有り様というニュアンスでコモンと呼んでもいい、みたい。
文章は結構ぐいぐい来る感じで、好きな人はこれが好きなのだが、わたしは先日たまたま『∀の癒し』で、劇場版のかなり駆け足とはいえ「∀ガンダム」本編もみていて、それと比べれば相当に硬い文章……。富野監督自身の文でも、もう10年たてば全然違ってくる。それがわかった。
面白いのは、この序の章末――『バイストン・ウェルは魂のマスカレイド(仮面舞踏会)。』、この表現はたぶんここにしかない……?
「魂のマスカレイド」はAB戦記中にもあるね。先日来、わたしはトミノ的にこのモードが入りっぱなしで、この序文を読むだけで共振して震えた。今、ここまでにする。この序文はほんとに完全版のほうにないのかな。
この通読ではページや「ページ数」について言及していないが、先程の序文の「8ページ」と言った場合でもこれ、カドカワノベルス本は上下二段組の本文でスニーカー文庫より密度高いからね。字数では、ベルチルやハサウェイの約5倍、10000字ほどある。
そんなこともあって紙面や底本のページ数にはあまり触れない。紙媒体か電子かという話では、わたしは、これに限らねばとくに物理ペーパー礼賛主義者じゃない。わたしの態度などここであえて蒸し返すまでもないが、観念的でなくありていに現代の環境というものを言えば、電車の中ででも剥き身で『リーンの翼』など読んでみて言うことだな。
ちょっとまってくれ……。1章のしょっぱなから全文が全然ちがうじゃないか。同じ状況、同じ行動を記すにも全て新たに書き替えているのか。わたしは、旧版をまず読んでいて後から完全版を求め直したが、交互に読んだわけではなく新旧がここまで違うとは思っていなかった。
「どこが違う」「ここが省略」というメモで済まない全部じゃないか。わたしは見込みが甘かった。これ1章だけなのかな。
同文でも叙述の順序を変える。時制も違う。それで新旧で「作家の文体が変わった」ようには全然掴めない。字数を圧縮して早回しするに加えて、二三の新たなエピソードを挿んでいるのだが、わたしはいきなり、富野由悠季が二人いるのか! のような驚嘆してしまった。
ふつう、こうした再編をするにも、事件を一つ二つ省略するとか、章を省略するとかで、全面的に文章を書き替えてするか? 印象としてはちょうど、富野アニメの劇場版編集の手口のようで、先日まで『地球光・月光蝶』にかかっていたので二周して腑に落ちるような感覚だった。
大事な追加エピソードは、迫水の父のプロフィールと家族について、文金高島田の人形のこと、かな。始めからびっくりしてしまったけど、1章の間に慣れてはきた。6巻までの対読はこれだと時間かかりそうだな。今ここまでにしよう。
わたしは、これもたまたま先日まで、神林長平の『戦闘妖精・雪風』の新旧読みをしていて、それは何周もしていることで端々の違いを気にして旧版を読んでいたのだけど、それくらいの異同だと思っていた。驚いたな、『リーンの翼』は当たり前に読んでいるつもりでこんなことを知らなかった。
少女のバイストン・ウェル
富野話題を少し戻って、「スーパーサイコ研究」の題でこれまでの思案を幾つかおさらいのようにしていた。
リーンでは、この中で触れたジャコバのこと等あるが、1980年代と20年あまり後とではどう違っているのか注意する足しにはなるだろう。1章読んだ感じでは、わたしはやっぱり、あまり分からないのではないかと思う。
「天空のエスカフローネ」OST1, 菅野よう子/溝口肇 (1996)を聴く。
「王の心」「ブレンパワード」「∀」まで、菅野よう子音楽続きで今度は数年遡る。パロディなのか本気なのか、半笑いではまる、呆気にとられるような90年代アニメ音楽の傑作のひとつ。今聴くが、わたしはこのエスカサントラはもう長いこと聴き返したことがない。
「エスカフローネ」の世界を「女の子のバイストン・ウェル」のように思ってるわけじゃない。というか、そんなにはない。真綾声の美井奈、みたいな、鬼畜生みたいな連想したくないし、人にもさせたくないしな。
『リーンの翼』とは関係ないが、せっかくだからこれをしばらく聴きながら読むとして、樋口康雄音楽にも後で言及できればいい。
話は少し戻り、『∀の癒やし』中で富野評になる菅野よう子像には、「天才肌、才能」「女性の生理(感性)」もあるが、「アニメが特別なものでなくなっている世代」ともいう。そこは谷村新司についてと併せての章で、富野監督の立場からそう見ているのはわかる。わたしらからすると、どういう意味なのかは注意したい箇所ではある。上のような話。
それも、今にならないとわたしは思わなかったろうから、そのつど書き込んでいくだけだ。ネットに菅野よう子評というのは多いと思うから、わたしはそれに深入りせず。
「2 勇者アマルガン・ルドル」(旧)
「2 ミン・シャオの逆襲」前半部(新)
章題を挙げるだけですでにややこしくなってきたな。全てを舐め尽くすようにここに書き込む気はないが、取っ掛かりのややこしさだけでも自分で整理したい。
新版(完全版)は字数を圧縮して展開をスピーディにする意図があるのは当然のよう。ただ描写を削るだけでなく、叙述の順序なども置き換わり、語法も違うことは書いた。漢字表現がひらがなに砕けているのは時代的、または著者の変化のようかな。『小説V』の頃に急激にひらがな実践の時期がある。
字数をいうと無論のこと、旧版の方が表現に文字が費されている。比較して、完全版に圧縮されて不満な点というのはまず、ない。それを見較べることが「すごいな」という意味で比較する価値は、ある。
細かいことでは、アマルガンの身格好を見ながらすでに迫水に憧れ感情が湧くとか、洞窟を出るまでに剣の型を一度思い出し、出てからまたあらためて洞窟に戻って準備するところが、完全版では一気に砂漠を行くところから章が開く。
ハロウ・ロイへの羞恥心が強いことと……ハロウの「死人のような美貌」というイメージは完全版に省略されて惜しいかな。
コモン界の馬について。くり返し。
「サラブレッドの洗練さはない」(旧)
「横浜の郊外で見かける農耕馬にちかいもの」(新)
どういう違いなのかというと、少年迫水がサラブレッドの競走馬よりは、農耕馬を見知っている。
馬の角について。
「ゆらゆらと上下する馬の額の真直ぐでありながらねじれを持った角」(旧)
「三角の角をせっせと上下させる馬」(新)
迫水は唐突にゴビ砂漠めいた光景を目の当たりにしても、混乱や不安を感じる余地のない圧倒的な実在感の只中にあって、ファンタジーにありうる「まるで夢を見ているかのような実在感のなさ」というのでは、ない。すごくリアル。かなりの間は異世界という概念もなく現実としか思えない。
太陽がないことに気づく。完全版ではアマルガンが一言挟み、バイストン・ウェルでは燐塊 のことかという。燐の光のような表現はシリーズ作品でいうが、このルビは初出か。完全版の迫水はアマルガンに敬語で話す。
砂丘に昇ると、集落が見える。旧版では二、三十キロ先にあるものが、完全版では数キロ先にある。
横浜育ちの迫水にもアマルガンとハロウの人種がわからない。旧版では「異人種」だと思う。完全版では、迫水の知る白人よりは中近東の肌色に見える。上の、死人のようなフェラリオの色みはそのように省略。
言葉のちがいとテレパシーの介在に気づかずにしばし混乱。
アマルガンの国の名はツォ(旧)、またはシィ(新)。
「シンの住む世界では日本語で済むわけなのだな? 我々と同じこの言葉で」(旧)
「シンの住む世界ではニホンゴではすまないのか?」(新)
ここは旧版の文意が誤りらしい。
「?……違う言葉を話す人とは、話ができないのか?」
「できない。はい、か、いいえも分らない」(旧)
「ちがう言葉を話す人とは、話ができないのか?」
「はい、か、いいぐらいしかわからないものです」(新)
対読といっても、こんな煩雑なことをするのがわたしの主旨ではないから、このあとはもうちょっとポイントを押さえて読みたい。
ハロウの「死人のような美貌」というのは良いところ。そういうところだ。今夜ここまでにしよう。
フェラリオの美女ハロウ・ロイに対して迫水は、自分の男立ちのできなさを慚愧の思いで噛みしめる。彼女は、レイプされていたので、どちらが恥ずかしいかといえば彼女のほうだが、という、読者によっては目にきつい文章が入ってくるかもしれないが、わたしは暴力やゴア表現等にはそれなりに慣れてはいて、こういう言い方はそんなに嫌いじゃない。それなりに好き。
それとべつに連想したのは、小説通読ではこのまえ、年譜ではずっとあとの『V』のカテジナのことで、再会したあとにカテジナの当たりのきつさ、カテジナ目線からのウッソの鬱陶しさは鮮明になってくる。最初から迷惑だと言っているけど。その際に、もしもウッソが、
『でも僕はカテジナさんの命助けましたよ』
とは、言わないだけまだウッソは我慢してるじゃないですか……のように、思ったのを思い出していた。
迫水が恥じるくらいならハロウのほうがずっと恥ずかしいよ、の連想。
その話は『リーン』に今関係ないのだが、……そんなに嫌ならウーイッグで助けずに死なせておけばよかったですか? とは、ウッソでなくても、そんなことを言えるのは人間じゃない。
ではカテジナやクロノクルの現在に陥った状況は、もしもどこかで違う選択肢を踏んでいればもっと救いのあるものだったか、は、どの瞬間にもそれはなかっただろう。どうしようもないところで空回りしているから彼彼女は必死になるほど客観的にコミカルに見える、喜劇になるという話をした。
それはブラックユーモアで書かれているので本当にそうのはず。だがもうひとつチャンスは、「それもまたエンジェル・ハイロゥの空域で起こったことだ」というのはあり、エンジェル・ハイロゥのエリアでは、現実に逃げ場のないシチュエーションでももうひとつそれを超えうる、と作者自身が書いてる。そういうところを読者が利用してもいい。批判的読書には余計なことを書くだけわたしは気が優しすぎるよな。
ifなどは……この時世では世間はそれが見たいというだけの話ではありながら、古典原典は大事とはいいながら今見たいのはこっちだよねという形で、「トゥルーエンド」という言われ方にもなるだろう。そこは世代相応というもので必至ではある。「スーパーサイコ研究」なんかを発作的に思ったのは、わたしはまたそういう気分が差したみたいだった。わたしは「アムロが父親代わりのようになっている図」というのは嫌いだ。それはかなり強硬にきらい。
わたしのは、そこにファンの願望語りの本性がわかっているからいやだ、反抗するという、それ以外の理由じゃない。
カテジナのことは、通読していれば前回エイシェトのことで腑に落ちるものがあった。ハロウ・ロイまで救いたいと言いだすやつはいないから、それは取り上げた。
フェラリオなんか助けなければいいのに、生かしておかなくていいのに。『ガーゼィ』のように事情があって出さなくていいなら、最初から出さなければいいのに……とは、古来、コモン人もたえずそのように思い知る経験をくり返して掟になっているんだろう。
「フェラリオの話はしない」がわたしの表向き態度で、すれば決まって自堕落な話になるのがわかっているから。
フェラリオのだらしなさ
「3 ミン・シャオの逆襲」(旧)
「2 ミン・シャオの逆襲」後半部(新)
旧版、前章末から迫水が霊感じみた警戒心で集落の様子を怪しむが完全版ではそのくだり省略して入っていくのは、怪しいことは怪しいがその場で言っても始まらんというアマルガンの態度を地でやっているようで面白い。
相違比較に目を留めると、その行で考え始めて止まってしまい、読み進む気がしない。
「ハロウ・ロイは臆することもなく座り、ゆったりと食堂を見廻した。」(旧)
「ハロウ・ロイは臆することなくすわって、ズタ袋やら木箱が積み重なった食堂をうっとうしそうに見廻す。」(新)
ハロウの態度は若干、生っぽくというか、俗っぽくなっているのかもしれん。この場所は小汚く煩い場所だが、鬱陶しい場所を鬱陶しげに見廻すフェラリオはやや普通の人に近い感覚のよう。
〝六十燭光以上あるな……それが三つもついているのか?〟(旧)
〝六十燭光以上ある……それをふたつもつかっている……〟(新)
迫水時代の感覚では贅沢な照明だと思うが商売処だから一般家庭よりは当然なのかもという理解は共通。60キャンドルかける3か、2か、というちがいは、わたしは正直に文章から区別がつかないのだけど、そこは著者として一個減らしたかったのだろう。リアリズムのこだわり? 何故?という想像を、新旧読者にさせるため? 半分、にやにや気分で読んでいてミン・シャオのことはどうでもいいやのような。
上のように、漢字をひらがなに崩しているのは全体。また、「座り」を「すわって」のように、「って」と少しやわめの接続を多用するようになるのが富野文の新旧の特徴が出てる。
「~が、~~って、~~して、~~なのである」
というある種、だらしない文章を作る。昔のほうが生硬でガチガチしているから、研究のうえでわざとこうしているんだ。わたしは、富野節の真似はしたくない。真似するとばれるからで、わたしの場合ひらがなを気にするのは投稿文の視認性から。
昨夜まででまだ1章と半だけど、ファンタジー読みだったら前章のハロウの死人のような美、異界美、などは落としたくない。勿体ないじゃないか。でも全文に書き下ろし描写は満遍なくて、それだけが目を引くわけじゃない。全体のバランスからみて、ここは減らしておいて、後で盛りますという計画でされている再編集のうちだろう。それは、自分で書いた旧原作がもともと傑作でなければ問題にされないから、その実績ありき。
ここまでは原理原則、型通りです。これを踏まえて、型破りに行きます。
言うのはいいけど、衒いなく言えるには自分に確固たる実績がないと恥ずかしくて言えない。くっそ大人が……という悔しさになるのが分かれば子供はまだまし、という話だろうか、だといいな。わたしだってリスペクトよりは憎々しい思いがする。
『アニメを作ることを舐めてはいけない』のタイトルを「信じてはいけません」のように曲げた読み方は、考えられない。建前で本当は舐めてもいいですとは言ってない。常々の仰りようから、著書当時にさえ『今まで舐めていたと思う』との含意で言っているとは思える。『舐めたいものはまだある』もか。
わざとらしい作為のあるタイトルで、内容をみれば他の題はもっとありそうだろう、と読者は思うんじゃないか。
二回いう迫水
続き。宿屋での身支度のうち新たに調達した革靴のこと。完全版で全文書き改め、一揃いの同じ靴を描写しているのに全く別のことが書いてある。新旧の文章を繋げれば設定が細かくなりそうだ。
新旧ではっきり異なるのは、旧版では革紐を通して足首に固定する仕様なのが、完全版では革紐に替えて左右二対の骨質の鉤で前合わせにする。零戦 に似合う靴ではないかと迫水にこだわりがある。旧迫水はこれを「いい靴だ……」と呟き、足固めして床を一二度踏んでみて「いい靴だ!」とくり返す。新迫水はそれらの履き心地を確かめたあと「いい靴だ……!」という。
海軍支給の半長靴よりなじむ。旧版では、飛行靴より
説明しないが、富野監督はたしか零戦は「れいせん」(ゼロせんではない)の読みにこだわる方だったと思うが、はっきりそう言っていたかは忘れた。作中のルビは上のように振ってある。
アニメ化したときに靴の新デザインが決まってそちらを描いているんだろう。
前々章、洞窟でも同じ後悔をしているので初めてではない。完全版では削除。
夜襲。階段を降りきらない間に闇打ちを受け返し、テーブルに飛びのった迫水の靴は滑りもしない。その体勢で剣は後に流れたままだが、それが背後の敵への牽制にもなる。最初の敵が仲間への合図の擬声を発する。その声めがけて、すかさず迫水が攻勢に移る。
敵の一瞬の隙に、テーブルを蹴って、右から左上に剣が切り払う。重い衝撃を受けて右腕が止まり、同時に(どうじに)両足が床を踏み、右で支えている柄に左手をかけ、
影が呻く。人を斬ったのか! 乱刃が舞って見える間にアマルガンが横切り、前に立つ――わたしは剣術小説の専科でもないがこの手順はかなり細かく、しかも新旧でアクション自体はほとんど違いがない。剣を入れたあと切っ先が流れるか、切っ先を引くかは、迫水の腕前の評価のちがいだろう。
直心影流の古流の稽古は無駄ではなかったらしい……。徳川時代以来の道場剣法の価値については、ここではネガティブ評価。前後になるが『ガーゼィの翼』で前回長く読んだ。「近代のスポーツ剣道からの実戦移行」について、平成の剣道少年クリスをモデルにして詳しい。そこでも登場した示現流については、旧版では「自源流」として紹介されている。
直心影流自体にわたしは詳しくていってるわけでなくて、迫水の師匠が、迫水には竹刀稽古をさせずに木刀の素振りと実戦の型だけを教えたので、古式。クリスはスポーツ発、新式。
「ミン・シャオの逆襲」おわり。
ミン・シャオに謎の「っさ」という語尾のキャラが付いたが、彼女の完全版の口癖でとくにガロウ・ランの習慣でもない。
倒したガロウ・ランにアマルガンがとどめを刺していく。この説明も旧版の文章が長いが、ここでは儀式や、苦しみを終わらせてやる慈悲をまじえた行為ではなく、倒れた敵が正気づいて反撃する場合が多々あるための、あくまで戦場における防衛的行為と強調される。「とどめ」についても、バイストン・ウェル物語ではシリーズを通して長い話題になることもいった。今夜ここまでにする。
「4 街の夜」(旧)
「3 街の灯」(新)
戦陣訓の読み上げから。引用文は旧版のほうがやはり長い。
本文の要旨については前章・前々章にくり返し、日本軍の精神的土壌を述べるに、軍国青年各々は大局を読める立場(地位)にないこと、必殺の新兵器で大敵に勝つ/勝つまで已まじの高揚感(ハイ)、精神論に加え、他者(諸外国)に対して自己を顕示させなければ潰されてしまうという強迫観念を挙げる。おおむね同じ。
この「著者の歴史認識」というもの自体が、1984年から2010年までの間に進展や変化があるかはここを較べるだけでは一瞬では読みきれない。「この文は旧版にないな」と思っても、前章で書いてなかったことが後章に補充されていることもあるから……。
完全版の文中には、「特攻隊員を生き神様とたたえて見送る女たち」がチラリと挿まれている。これは前にも触れた文金高島田の特攻人形にかかわる要素。
空に棲む魚の話
歯ブラシには「豚の毛らしい」と補足されている(新)。富野作品では歯ブラシは大事なので読者は憶えておくといい。
商家のあるじキャプランからのバイストン・ウェルの世界についての講義のうち、水の世界 、闇の世界 には旧版のルビが完全版では省略されているが、そういう些事はスルーしていいんだろう。
空の燐について。夜空には星のように見える「リン」というものについて、迫水は「燐」「鈴」「鱗」の漢字の連想をして、旧版では「鈴」が正しいのではないかという感性を示す。それが好きだなと思っただけ。
完全版では、「鱗(うろこの字)」と思ったときにキャプランとハロウが魚のようなイメージを送ってくる。とくに説明はない。
『リーンの翼』中にあるか忘れたが、バイストン・ウェルの言い伝えのうち、空の燐のまたたきはコモン界より上の界ウォ・ランドンの海を泳ぐ深海魚の鱗の光だという説がある。手元では『オーラバトラー戦記』にその話がある。
『ガーゼィの翼』の巫女ハッサーン・サンは世界をわりと即物的に現象として(物語でなく)捉えていて空の燐のことはエネルギーの塊としてイメージしていた。それも、魂の光の集まりだというが……。バイストン・ウェルの太陽と月とは、燐の大きな塊で、昼の太陽は「太陽」と呼ばない。燐の光という。夜の月は、とくにこだわらずに月と呼ぶことがあり、満ち欠けもする。
特攻人形のことは、この1巻の序盤でまだ書くことではないけど、ここまでも迫水は日本軍の当時の姿勢態度等がバイストン・ウェルに来て客観的に見えてしまったために、やがて故国である日本との精神的な繋がりが切れがちになっていく。自覚的に、なんとか日本人としての意識を保とうとするが。
のちに続々とバイストン・ウェルに落ちてくる地上人と情報交換するようになれば、ますますその時代認識を補強でき、あの戦争はなんだったか、自分はなぜ死地にやられなければならなかったのかと自問すれば今は異邦の流謫者として正確に説明できてしまう。特攻人形の印象は後にはほとんど忘れるが、微かに微かに留めていて、そういうものを最近ここでは風土と呼んでみていた。ここの通読している間にもわたしは風土なる言葉を全然思い出さなかったので、それはそれで意外だった。
ハッサーンのことを書いてふと思い出したのは、『リーンの翼』の後の時代に出てくる迫水の後妻、コドールには、アニメと小説を読むだけでは良い印象を持たれないと思うが、彼女の抱く地上界への切ない憧れの気持ちには、ハッサーンの面影があるんだ……。そう思うと彼女ももう多分憎めないな。
4章おわり。フェラリオとフェラリオ中だが章の区切りなので今夜ここまでにする。
〝なら、好きにやる……〟こういうところがわたしは本当に可愛いと思うが、自堕落な子だ。
これらの美しい場面は、自堕落は別としても少しでも長く読みたいという情は察せられ、そういう読者は旧版も読んでいいのではないか。そう言えばいいのか。
わたしは、趣味をいうと口淫って好きじゃないのだが、前後にいくところまで書き込んでいるのは旧版のほうが良い。
ほか、迫水の父についての言及が処々に補強されているのも完全版の意図のひとつだろう。
よくいう、富野由悠季の父子関係がどうとかではなく、もともと旧版の迫水の素性が常人離れした部分があって、幼い頃から古流剣術だったり戦陣訓の話にしても当時の青年軍人としても周囲以上に理想的で熱血だったりするので、生身のエピソードが足りないと思われたんだと思う。
「5 剣」(旧)
「4 剣」(新)
前半まで。完全版の字数を詰めるリライトをしている以外にほぼ大差ないが、あえて手を加えないことに感心するような気分。少し気になったところは、完全版に、一度萎えた迫水にハロウが乳房で愛撫にいくというテクニックが加わっている。旧版では愛撫、とのみ。
旧版で迫水が叩きつける「切り札」の台詞は、完全版ではごくごく穏やかなニュアンスに崩されている。迫水はフェラリオの種族について未だほとんど無知だが、その蔑視を吐き捨ててしまったことは、省略するには惜しいかな……。
わたしは今夜もう疲弊していてここまでにする。
お互いの間で本当は言ってはいけないこと、言わない約束のことを「切り札」というのは、わたしはちょうど最近、ジークアクスのマチュとニャアンの関係の想像をしているうちに、例の割れたスマホのことを切り札と思っていた。のを自分で思い出してしまった。
公式にどうという解説があったわけじゃないけど、あのスマホは割れたままにしておくのはマチュとニャアンの間の「絆」になってるんだろうな……というのはわかる、かな。そのことはむしろ、シュウジには関係ないことだろう。三人の関係にもそれぞれ、重なる部分とズレてる部分がある。
男の死に体
サイコBLの話を一日考えていて、やはり今ちょうど迫水のところでもあったので思い出す。
ハロウ・ロイの肉体のなされるままにされ、足腰立たないほど弛緩してしまった迫水は「これでは男ではない」と愕然、慄然と思う。これまでの章にも、迫水の思念のうちには、――男は犯されるものではない、男の狂態は晒してはならない、男として死に体だ、――とバイストン・ウェルに来てたびたびに自戒と慚愧をくり返している。
女性に対してはとくに、女が乱れてはならないとは思っていない。
女のように男が乱れてはならない、というと女性蔑視のようにも思われそうではあるし、実際に時代的には男女の隔て観はある。それとまた、美意識として「女の乱れぬくことは美しい」とは常に語られても、男の崩れは様にならない、滑稽に落ちるという文化も、男女の身体の作りの生理的事情も実際問題ある。
女性蔑視だけのことではないというが――今度は女性から見ると、「女は乱れていい、男は別だ」と格好を繕おうとする男は、やはり腹立たしいかぎりの態度ではあり、そんなガードは引き捲って男も乱れ狂わしてこそ女冥利でもあろう。ハロウが衝動的に怒りを覚えるのはやむないくらいだと思う。
現代少年のこと
迫水の男女観は、そうは言ってもやはり相当に古い。1945年当時の青年軍人の標準からも異常なほど古武士的だろうとは前章までも思った。上に、ジークアクスの連想を書いたばかりだが、2025年現在の少年だったらもっと自由な態度だろう。……とは、現在、ふつうに概ね言われることだろうと思う。
事実はどうか知らん。女と男が区別なく語れることが「自由」か? 現代の男子高校生だって「女と男ではちがう」意識はないわけがないとわたしは思うし、文化としても、視覚映像ジャンルのキャラクター男女差の描かれ方などはむしろ誇張され、強調されて見えていたりする。男装女装などについてもあれこれ言える話題はあるだろう。
男の子・女の子はイーブンだよ、と言いたい人は良いとして、「それはそれとして、そのコードはあるよね」という踏まえで、女子の口から「もっと自由になっていい」のような台詞を男の子がどう聴くだろうと想像しても可愛い。男子から女子に手引きする場合には言えたことでも、それを後に女子から男子に手ほどきし返されれば、男子には加わる愧じらいはあるんじゃないか。
ボーダーに目を向けるよりは、セクシャリティという言葉遣いを選んだほうが、上の話については多分いいだろう。前回連想するのは『∀の癒やし』より。フェラリオと、リンレイについての場合はまた、どうだったろう。
さざめき
水の妖精のようなエ・フェラリオの体内の感応を、さざめき、波立ち、とリライトする手慣れた気分は好き。
ハロウ・ロイは、自分は迫水に触れて浄化されはじめたのではないか……(ないかしら)と思えるようになっていたが、それがわずかの後に彼女の命取りになるのだろう。
そういうとこ読むことを精読として今度の通読は始めたの。おそらく、両版を持っていて読んでいる人でも、その一々に仮に目を留めはしても、書き留めてはいないだろう。
富野由悠季の文体はどういうものか、という解説が、主流の文芸評とか雑多な読書レビューに任せて永久に明かされないような不審感ってある。
ここなどは、見るからに複数の文章にわたる描写の内容を「――て、」「――ば、」「――が、」「――て、」と繋げて一文にしてしまう。上では「だらしない文章」とも書いてしまったけれど、やわらかく弾力的に口述をつづけていく独特のリズムを作っているのは90年代以降に好きそうで取り入れているらしい。当時に何がきっかけでそうなのかは、わたしはわからない。たとえば、そういう例にはなる。ほかにも見たいところはあるはず。
そうだな、「口述」だよ。この文体。そういうイメージ。
旧版5章まで。完全版では章を改めずに続く。今夜ここまで。
量的にはほとんど読み進めていないけど。上のようなことを迂闊に書き込むのはネットで無用なことだ。「文体」とか書いたらそれだけでもうね。
ここの、稽古の後のキャプランからの「餓鬼の剣術」との痛い指摘は完全版で省略だが、わたしの記憶にはあるし、後章に補足だったかな。ヤエーッと大声で稽古しているだけで敵からは観察してくれと言わんばかり、とのような。
「6 報復の血」(旧)
「4 剣」(新)つづき
迫水の新しい戦闘支度には旧版では革の帽子に鉄片を仕込んだ兜様のもの、完全版では飛行帽の上に革兜を被ってこの革兜の仕様が同様のもの。この、元からの飛行帽をいつまで持ち歩いていたかはわたしは記憶にない。
章おわり。旧版では章末にムラブとミン・シャオの幕間が入る。
この剣戟のシーケンスは段取りはそのままにタイミングが変わっていることがある。
最後に矢の斉射をかわす際には迫水は数メートルを跳んだ(旧)のが十数メートル(新)に割増されている。
また呼吸について、どこで息を吸って吐いたか補われている。剣法小説では呼吸は必ず重要なのだが、わたしは読者としていつもよく分かって読んではいない。
完全版では、最初にガロウ・ランから分捕った青竜刀はこの戦いの初めに左右に持ったあと、ゲリィを救ったときにはもう捨てているらしい。いつ捨てたのか迫水も憶えてなく、以後出てこない。
ハロウ・ロイを哀悼なんて富野読者がネットですべきでないが、結局のところわたしは最後までフェラリオについて気にかけていた。
「7 聖戦士」(旧)
「5 聖戦士の居場所」(新)の冒頭
迫水は前夜の戦いでガロウ・ランを六人斬った、人殺しの感覚がようやく蘇り始める。殺人体験についてはバイストン・ウェルで各シリーズにくり返すが、迫水の反芻する殺人の感覚は文章上でも生々しい(うどん粉)。
はっきりPTSDという問題になると、現在は一般書でも戦争の心理学に一ジャンルがあり、昨年までに瞥見なりとおさらいはした。そういうの読み聞き知るにつけ現代に基礎知識として知られておかれたい、不安はあるものの、わたしは富野作品の枠を出て紹介する気ない。70年代頃には小説界にテーマとして浮上しているらしいことは言ってる。1983年というのはそれでもかなり踏み込んでいると思われる。それを言えば、迫水とクリスの過程は比較するのに興味深いものだった。
その話のあと完全版は次のシーンへ移ってしまうが、旧版ではその夜、迫水は反復する殺人感覚を酒飲みに紛らしながら、アマルガンに対してこれまで聞かなかった事々を問いただす。半ば鬱憤をぶつける。
旧版7章の内容はかなり長いが、これまでのくり返しの内容も多く含むから省略になっているんだろう。部分部分はこの後の章に散らばっていくのかもしれない。再読なので、その箇所があれば気づく。
アマルガンの素性を訊ねる。義賊アマルガン、という世間的な押し出しの裏に、アマルガンはアマルガンでまだ公開しない正体と思惑があるらしい。そのあと話が転じて、日本軍の「戦略」についての話が始まる。
日本軍の話はこれまで、当時青年の精神的テンションを重点にしたが、ここでは、あの戦争をするにあたり戦争に勝つための戦略というものがあったかと、その責任は指導するインテリ層にあったのではないか。飛行機熱と血気に逸っても俯瞰的な視野を持てなかった青年が迫水であるは、くり返し。
強剛な武人であるとともにその同じインテリ臭を感じさせるアマルガンという男に警戒心を抱く。また自らは生まれの素性も、インテリ的な気質も厭う節のあるアマルガンはリーンの翼を「力の象徴」として語る。旧版はここらでリーンの翼の意味が浮上してくるみたいだが、完全版では前倒しで点々とその言葉は聴いていたようだ。
酔っているところにゲリィ・ステンディが差し入れ。ゲリィが手にするカンテラは、虫籠に数十匹のホタルを詰めたもの。シリーズでこのホタルランプは、ダンバインに出ていなかったかな。またよく憶えていないけど。
このホタルは実用品なのだが、文字で読むかぎりではなかなか風流な代物。海外ファンタジーだと、この種の生き物照明といえば「ツチボタル」(グローワーム)のほうが定番で、わたしはその出典を小説で見るごとに手元に収集していることがある。
近代までの剣客・剣豪の話にも、あたら達人でも初めて人を斬ったあとに、その夜、刺し身を食っていて嘔吐してしまい、それで再起も難しくなったのようなエピソードは点々とあり、古くから知られていないわけではない。
それが社会問題になると認識されていなかった。古くには宗教が戦士達の心のダメージを補っていたらしいことも、それを研究テーマとして意識されているのもごく最近のようだ。
リーンの翼とガーゼィの翼の意味に違いはあるみたいだな。ゴゾ・ドウがそれをどう評価していたかが今から気になる。