リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
1 (完全版1-21 : 旧版1-33)
- バイストン・ウェルの記憶
- フェラリオのだらしなさ
- 空に棲む魚の話
- 男の死に体
- 死に損ない
- 生き神様考
- フェラリオ交響曲
- ガダバの結縁
- ガロウ・ランの神話
- 英才教育…規範 / 恣意
- 卑屈にしている暇はない
- バイストン・ウェルの黴菌
- アマルガンの民衆史観
- ドラ・ロウ
- テレパシーでからかう迫水
2 (完全版22- : 旧版34-70)
- コモン界の黒歴史
- トゥム、ネイラ・ザン、ノム
- 大和こころと桜ばな
- 純粋に戦いを楽しむコモン
- 理由はない
至誠 に悖るなかりしか- 「守るだけでは勝てないから」
- 至誠と桜花
- 勝つために戦うこと、戦争を始めないこと
- 俗に言う八方眼
『リーンの翼』を読む。旧版と完全版の全巻揃えてあるが、わたしはこちら完全版(2010)の刊行のあとは結局新しいほうばかりを読み返す習慣になって、旧版はもうだいぶ読んでいない。手元にも置いていなかった。
この対読(新旧較べ読み)の仕方は、まだ考えていない。「二冊同時」にはわたしは難しいが、旧版を一章読んでは新版に戻ってもう一読は、やはり相当面倒くさいことであり、どうにか上手くしてみる。今はトピック立てまで。このあと。
コモン界・ヘリコンの地
今回、完全版は電子で併読する。
旧版は、いうまでもないレベルのこととして、全巻にわたり湖川友謙イラストを楽しむこともできる。ここではその紹介はたぶんしない。非常に良いもの。寺田克也による完全版もわたしは好きで、その併読は現在ではリッチ環境。
完全版の巻頭にはバイストン・ウェルの「コモン界・ヘリコンの地」の地図が載っている。忘れていたが……。わたしは読者として、バイストン・ウェルに世界地図があることはあまり意識したことがなく、大概行き当たりばったりな世界だと思っている(→心の世界の自然界)。
『ガーゼィの翼』には最終5巻になって唐突に挿まれるが、それは作中、最終決戦直前までの戦線の推移が若干ややこしい策略になるためで、世界観を提示する目的よりは矢印を見ながら各隊の進行を追うものだった(会戦展開図とある)。わりとわかりやすいのは、著者によるよりか編集の人が作成したんだろう。『ダンバイン』の地図も何かあった気がしたが、忘れた。
「ヘリコン」というこの地方の名は、旧版の時点ではたしかまだその名は設定がなかったのではと思うが、詳しくはあとでみる。主に2006以降アニメと、完全版3巻以降の加筆章から使われるようになる呼び名。
旧版の各章はローマ数字による通し付番になっており、六巻までに表記がややこしくなってくる。ここで言及するには煩瑣なので完全版同様に数字はアラビア数字で統一する。各章の章題は、また新旧異なるサブタイがついていることがあるが、それはその時に言おう。
今日はまだ1章も開いていない。電子なので完全版のほうはKindleリーダーを傍らに立てればいいんだな。
バイストン・ウェルの記憶
序文がない! 完全版はいきなり「1 オーラロード」から始まるんだった。
以下、読んでみよう。
「人の記憶層の底の底に」というのは、もっと後の作品では「記憶巣」と書くんじゃないだろうか。逆シャア頃にはそのはず。
その意味は違うのか。深層・浅層のいみだから。
わたしは「巣」のほうの意味もわかるけど、脳のはなしなら「記憶野」と言ったほうが通りはいいんだろうが、必ずしもその生理的基盤の説明について言うわけではない。今その話はよし。
この序文……序章はかなり長大なもので8ページにわたる。バイストン・ウェルのまず構造について語るもので、その概念自体は、これを読まなくても『オーラバトラー戦記』を読めばそれと齟齬はない。
若干の言葉遣いの違いがあるかもしれない。ここではコモンと呼んでいる存在のことは、本編と後のシリーズ含め、おおむね「コモン人(びと)」と呼ぶだろう。種族というよりは魂の有り様というニュアンスでコモンと呼んでもいい、みたい。
文章は結構ぐいぐい来る感じで、好きな人はこれが好きなのだが、わたしは先日たまたま『∀の癒し』で、劇場版のかなり駆け足とはいえ「∀ガンダム」本編もみていて、それと比べれば相当に硬い文章……。富野監督自身の文でも、もう10年たてば全然違ってくる。それがわかった。
面白いのは、この序の章末――『バイストン・ウェルは魂のマスカレイド(仮面舞踏会)。』、この表現はたぶんここにしかない……?
「魂のマスカレイド」はAB戦記中にもあるね。先日来、わたしはトミノ的にこのモードが入りっぱなしで、この序文を読むだけで共振して震えた。今、ここまでにする。この序文はほんとに完全版のほうにないのかな。
この通読ではページや「ページ数」について言及していないが、先程の序文の「8ページ」と言った場合でもこれ、カドカワノベルス本は上下二段組の本文でスニーカー文庫より密度高いからね。字数では、ベルチルやハサウェイの約5倍、10000字ほどある。
そんなこともあって紙面や底本のページ数にはあまり触れない。紙媒体か電子かという話では、わたしは、これに限らねばとくに物理ペーパー礼賛主義者じゃない。わたしの態度などここであえて蒸し返すまでもないが、観念的でなくありていに現代の環境というものを言えば、電車の中ででも剥き身で『リーンの翼』など読んでみて言うことだな。
ちょっとまってくれ……。1章のしょっぱなから全文が全然ちがうじゃないか。同じ状況、同じ行動を記すにも全て新たに書き替えているのか。わたしは、旧版をまず読んでいて後から完全版を求め直したが、交互に読んだわけではなく新旧がここまで違うとは思っていなかった。
「どこが違う」「ここが省略」というメモで済まない全部じゃないか。わたしは見込みが甘かった。これ1章だけなのかな。
同文でも叙述の順序を変える。時制も違う。それで新旧で「作家の文体が変わった」ようには全然掴めない。字数を圧縮して早回しするに加えて、二三の新たなエピソードを挿んでいるのだが、わたしはいきなり、富野由悠季が二人いるのか! のような驚嘆してしまった。
ふつう、こうした再編をするにも、事件を一つ二つ省略するとか、章を省略するとかで、全面的に文章を書き替えてするか? 印象としてはちょうど、富野アニメの劇場版編集の手口のようで、先日まで『地球光・月光蝶』にかかっていたので二周して腑に落ちるような感覚だった。
大事な追加エピソードは、迫水の父のプロフィールと家族について、文金高島田の人形のこと、かな。始めからびっくりしてしまったけど、1章の間に慣れてはきた。6巻までの対読はこれだと時間かかりそうだな。今ここまでにしよう。
わたしは、これもたまたま先日まで、神林長平の『戦闘妖精・雪風』の新旧読みをしていて、それは何周もしていることで端々の違いを気にして旧版を読んでいたのだけど、それくらいの異同だと思っていた。驚いたな、『リーンの翼』は当たり前に読んでいるつもりでこんなことを知らなかった。
少女のバイストン・ウェル
富野話題を少し戻って、「スーパーサイコ研究」の題でこれまでの思案を幾つかおさらいのようにしていた。
リーンでは、この中で触れたジャコバのこと等あるが、1980年代と20年あまり後とではどう違っているのか注意する足しにはなるだろう。1章読んだ感じでは、わたしはやっぱり、あまり分からないのではないかと思う。
「天空のエスカフローネ」OST1, 菅野よう子/溝口肇 (1996)を聴く。
「王の心」「ブレンパワード」「∀」まで、菅野よう子音楽続きで今度は数年遡る。パロディなのか本気なのか、半笑いではまる、呆気にとられるような90年代アニメ音楽の傑作のひとつ。今聴くが、わたしはこのエスカサントラはもう長いこと聴き返したことがない。
「エスカフローネ」の世界を「女の子のバイストン・ウェル」のように思ってるわけじゃない。というか、そんなにはない。真綾声の美井奈、みたいな、鬼畜生みたいな連想したくないし、人にもさせたくないしな。
『リーンの翼』とは関係ないが、せっかくだからこれをしばらく聴きながら読むとして、樋口康雄音楽にも後で言及できればいい。
話は少し戻り、『∀の癒やし』中で富野評になる菅野よう子像には、「天才肌、才能」「女性の生理(感性)」もあるが、「アニメが特別なものでなくなっている世代」ともいう。そこは谷村新司についてと併せての章で、富野監督の立場からそう見ているのはわかる。わたしらからすると、どういう意味なのかは注意したい箇所ではある。上のような話。
それも、今にならないとわたしは思わなかったろうから、そのつど書き込んでいくだけだ。ネットに菅野よう子評というのは多いと思うから、わたしはそれに深入りせず。
「2 勇者アマルガン・ルドル」(旧)
「2 ミン・シャオの逆襲」前半部(新)
章題を挙げるだけですでにややこしくなってきたな。全てを舐め尽くすようにここに書き込む気はないが、取っ掛かりのややこしさだけでも自分で整理したい。
新版(完全版)は字数を圧縮して展開をスピーディにする意図があるのは当然のよう。ただ描写を削るだけでなく、叙述の順序なども置き換わり、語法も違うことは書いた。漢字表現がひらがなに砕けているのは時代的、または著者の変化のようかな。『小説V』の頃に急激にひらがな実践の時期がある。
字数をいうと無論のこと、旧版の方が表現に文字が費されている。比較して、完全版に圧縮されて不満な点というのはまず、ない。それを見較べることが「すごいな」という意味で比較する価値は、ある。
細かいことでは、アマルガンの身格好を見ながらすでに迫水に憧れ感情が湧くとか、洞窟を出るまでに剣の型を一度思い出し、出てからまたあらためて洞窟に戻って準備するところが、完全版では一気に砂漠を行くところから章が開く。
ハロウ・ロイへの羞恥心が強いことと……ハロウの「死人のような美貌」というイメージは完全版に省略されて惜しいかな。
コモン界の馬について。くり返し。
「サラブレッドの洗練さはない」(旧)
「横浜の郊外で見かける農耕馬にちかいもの」(新)
どういう違いなのかというと、少年迫水がサラブレッドの競走馬よりは、農耕馬を見知っている。
馬の角について。
「ゆらゆらと上下する馬の額の真直ぐでありながらねじれを持った角」(旧)
「三角の角をせっせと上下させる馬」(新)
迫水は唐突にゴビ砂漠めいた光景を目の当たりにしても、混乱や不安を感じる余地のない圧倒的な実在感の只中にあって、ファンタジーにありうる「まるで夢を見ているかのような実在感のなさ」というのでは、ない。すごくリアル。かなりの間は異世界という概念もなく現実としか思えない。
太陽がないことに気づく。完全版ではアマルガンが一言挟み、バイストン・ウェルでは燐塊 のことかという。燐の光のような表現はシリーズ作品でいうが、このルビは初出か。完全版の迫水はアマルガンに敬語で話す。
砂丘に昇ると、集落が見える。旧版では二、三十キロ先にあるものが、完全版では数キロ先にある。
横浜育ちの迫水にもアマルガンとハロウの人種がわからない。旧版では「異人種」だと思う。完全版では、迫水の知る白人よりは中近東の肌色に見える。上の、死人のようなフェラリオの色みはそのように省略。
言葉のちがいとテレパシーの介在に気づかずにしばし混乱。
アマルガンの国の名はツォ(旧)、またはシィ(新)。
「シンの住む世界では日本語で済むわけなのだな? 我々と同じこの言葉で」(旧)
「シンの住む世界ではニホンゴではすまないのか?」(新)
ここは旧版の文意が誤りらしい。
「?……違う言葉を話す人とは、話ができないのか?」
「できない。はい、か、いいえも分らない」(旧)
「ちがう言葉を話す人とは、話ができないのか?」
「はい、か、いいぐらいしかわからないものです」(新)
対読といっても、こんな煩雑なことをするのがわたしの主旨ではないから、このあとはもうちょっとポイントを押さえて読みたい。
ハロウの「死人のような美貌」というのは良いところ。そういうところだ。今夜ここまでにしよう。
フェラリオの美女ハロウ・ロイに対して迫水は、自分の男立ちのできなさを慚愧の思いで噛みしめる。彼女は、レイプされていたので、どちらが恥ずかしいかといえば彼女のほうだが、という、読者によっては目にきつい文章が入ってくるかもしれないが、わたしは暴力やゴア表現等にはそれなりに慣れてはいて、こういう言い方はそんなに嫌いじゃない。それなりに好き。
それとべつに連想したのは、小説通読ではこのまえ、年譜ではずっとあとの『V』のカテジナのことで、再会したあとにカテジナの当たりのきつさ、カテジナ目線からのウッソの鬱陶しさは鮮明になってくる。最初から迷惑だと言っているけど。その際に、もしもウッソが、
『でも僕はカテジナさんの命助けましたよ』
とは、言わないだけまだウッソは我慢してるじゃないですか……のように、思ったのを思い出していた。
迫水が恥じるくらいならハロウのほうがずっと恥ずかしいよ、の連想。
その話は『リーン』に今関係ないのだが、……そんなに嫌ならウーイッグで助けずに死なせておけばよかったですか? とは、ウッソでなくても、そんなことを言えるのは人間じゃない。
ではカテジナやクロノクルの現在に陥った状況は、もしもどこかで違う選択肢を踏んでいればもっと救いのあるものだったか、は、どの瞬間にもそれはなかっただろう。どうしようもないところで空回りしているから彼彼女は必死になるほど客観的にコミカルに見える、喜劇になるという話をした。
それはブラックユーモアで書かれているので本当にそうのはず。だがもうひとつチャンスは、「それもまたエンジェル・ハイロゥの空域で起こったことだ」というのはあり、エンジェル・ハイロゥのエリアでは、現実に逃げ場のないシチュエーションでももうひとつそれを超えうる、と作者自身が書いてる。そういうところを読者が利用してもいい。批判的読書には余計なことを書くだけわたしは気が優しすぎるよな。
ifなどは……この時世では世間はそれが見たいというだけの話ではありながら、古典原典は大事とはいいながら今見たいのはこっちだよねという形で、「トゥルーエンド」という言われ方にもなるだろう。そこは世代相応というもので必至ではある。「スーパーサイコ研究」なんかを発作的に思ったのは、わたしはまたそういう気分が差したみたいだった。わたしは「アムロが父親代わりのようになっている図」というのは嫌いだ。それはかなり強硬にきらい。
わたしのは、そこにファンの願望語りの本性がわかっているからいやだ、反抗するという、それ以外の理由じゃない。
カテジナのことは、通読していれば前回エイシェトのことで腑に落ちるものがあった。ハロウ・ロイまで救いたいと言いだすやつはいないから、それは取り上げた。