リーンの翼 (1983-86 / 2010)について。
旧15/新10章おわり。おそろしく難しい場面を書いている。読み終えたときに背筋がぞくっとした。小説を読んでその戦慄は、また久し振りだ。
細かい比較点を補う。
完全版では「………」とか「……!?」といった旧版にある符牒のところは行を詰められがちだが、ゲリィについての感応を呟いた迫水とアマルガンの間にある理解の「……!?」は完全版のほうに一文、それが補われている。こまかい。旧版ではこの後、海岸であらためてアマルガンを呼びにコムがやられている。
リンレイは新旧で髪の色が異なる。旧版では赤茶色、完全版では金色。 →追記(新13)
レッツオ戦後の数日、多事に忙殺されながら迫水は夜には酒浸りになりながらとりとめない思案は旧版にまた続く。完全版では浦島太郎について考えたまでで省略。実戦を反芻し、特攻についてもたびたび考えあぐねた結果、旧版ではついに「心理戦」についての洞察に踏み込む。ここでは〝気〟をベースにする思想で、もちろんサイコミュではないが、富野文脈では後年くり返しにもなるので慣れて読めるといいと思う。
リンレイから迫水に、決して激昂することなく「女性の痛み」を切り札のように言い放つのは、並の少女には言えることではないし、小説家も相応の覚悟がなくて書けることではないと思う。それに重ねて畳み掛ける言葉は、
迫水にとって短刀(ドス)であった。(旧)
言葉の応酬の迫力は凄いものだ。わたしはこの二週間ほど「男子の恥」を別記事でひっくり返していながら、「女性の恥」についてはシドロモドロになりがちなことはよく分かるが……。この章の最後の台詞がまた、新旧では「言葉か、テレパシーか」の意味付けが大きく分かれている。これほど違うものなら両版は別物になる。
王女様の救出を甘ったるく書こうと思えばこんな超難しいシチュエーションを設けなくとも、颯爽と飛んで無傷で回収するノベルは無限にある。リンレイの性格を「都合のいい女」にもしたければ容易いものを、ハードモードを立てておいて彼女の心理をリアリティを持って推理していくのは、わたしは読んでいて言いようがなく腹立つ。
『リーンの翼』に入る前に、菅野よう子音楽の続きで「エスカフローネ」を前回聴いていた。これはこれで良いものだけど、バイストン・ウェル的な気分には結局ならんかった。「ワーグナーみ」のような楽しみはわたしにある。
しばらく音楽の気分が途切れてしまい、意気消沈している間、∀ガンダム頃までの時期的な連想から「青の6号」(1998年のOVA)とTHE THRILLの昔のアルバム等聴いていた。青の6号は別にそのうち見直そうと思った。この気分はバイストン・ウェルと関係ない。
潜水艦つながりでクラウス・ドルディンガーの「Das Boot (Uボート)」のサントラ(1981)を聴く。わたしはドルディンガーはジャズ方向の趣味から彼のバンドのエアポート等を聴いていた頃がありつつ、サントラは聴いたことがなかった。これはこれで良い収穫だと思い、そのついでで「海底軍艦」(1963)を聴こうと思った。それが、今日すぐ手元にはない。
わたしは今になると伊福部昭の音楽を聴くともう伊福部昭にしか聴こえないのでもある……。お弟子の和田薫さんの音楽は富野アニメに案外合うのでは?と思ったことはあるけど、その接点はなかったようで残念だ。それで「新海底軍艦」(1995)を聴こうか、と思いついてきた。天野正道音楽にはガーゼィのときに少しだけ触れていて、そのときにその気はとくになかった。
『リーンの翼』の小説を読んでいる間は、迫水のここまでの物語はそれほど勇壮なヒロイックになっておらず、どっちかというと奇っ怪で幻妖世界を漂流しているところ。おもにフェラリオの印象。海軍のような軍楽的な気分ではない。
特攻について長く思いを耽っているときにも、やはり傷心の気分、ペシミスティックな響きだろうと思う。それを強くすると「マッチョのための音楽」とも去年には表現していた。ちょうど溝口・菅野からの連想になるなら、「人狼」。
ただ、それとも今ひとつそぐわないようで、太平洋戦争を考えているときは「映像の世紀」(加古隆)みたいな気分だ。それはむしろ、完全版の後半、3巻の印象はそれだと思う。加古隆は、わたしには耳に痛いくらいやはり感傷的な作品が多くて、「責められている気がする」とも前に書いた。ギルト感情がある。アニメばかり聴いているわけではないけど、劇音楽の蒐集と興味は以前に多少あったのでついでに思い出す。
樋口康雄は今聴かない。ガンダムXと火の鳥2772は今度聴く。
「海底軍艦」今はサウンドトラックを聴く。SF交響ファンタジーの3番より、のような印象になりつつある。 上でも書いたが、わたしは今、伊福部昭を聴いて伊福部音楽の年譜以外に連想しなくなってきている。ゴジラを聴いてもゴジラのイメージが湧かないくらい。
昨夜から気持ちに引っかかっていたのだけど、いま聴いてみてやっと腑に落ちたらしい。この交響曲第1番(1961)を『リーンの翼』のイメージと重ねたことはなかった。
別宮貞雄を聴き返しているのは前から。わたしは主に「有間皇子」からの関心の続きで、この1番にも音楽の外にその連想がもともとある。印象裡には蘇我赤兄や鯯魚の場面が浮かぶ。その凄惨で、悲惨で陰惨だが同情はしかねるような、客観的にはコミカルでさえあるストーリーの絵巻が流れ、ちょうどリーンの翼でいう『真に、惨……』というような複雑な感情になっていた。全体的にふわふわした曖昧な感じがここまで1,2巻の、わたしの印象にあったのはこれだったみたいだ。この4楽章は南極観測隊の記録映画のための音楽が元らしく、活劇めいた雰囲気もかなりある。
別宮貞雄は終戦のときにはひたすら「解放」と捉えていたという理学生で、かつての迫水のようないわゆる軍国青年とは程遠い。当時から反戦のインテリではある。交響曲では、さらに後の第4番(1989)が自身の戦時中の記憶をたどった「夏1945年」という表題になるが、それはこのあと、次回聴こう。1,2,4番かな……。今夜はここまでにする。文芸や音楽の、個人的な連想が繋がる夜は良い気分だ。
「16 接敵」(旧) 「11 ガダバの前哨」(新)前半部
ガダバの総帥ゴゾ・ドウ登場。わたしはこの人の話が今回の大きな興味でもあって楽しみ。ゴゾ・ドウのプロフィールと、ガダバ覇権に及ぶにあたっての文明論的な史観のようなものが語られるのだが、アレキサンダー大王、チンギス・ハーンを挙げていてシーザーの名は完全版では省略。
旧版の文でも、シーザーの擁立には高度な政治的な意思を汲むべきである(=シーザー個人の英雄性に求めるべきでない)のような曖昧な言い方で、まぎらわしいので省略されたみたい。拡大しきった文化の発祥地である中心部はもっとも爛熟・頽廃し、一方で、周辺に拡散した文化を学んだ被征服者達が勢力を強める……という運動をとくに完全版では「ドーナツ現象」というが、この例にはローマ帝国をイメージするのが容易いだろうとわたしは思う。
この論の内容は新旧でほぼ同一だけど、話の順序が細かく入れ替わっている。
チッの国の攻略にあたって奪取すべき三つの砦――金、銀、クリスタル鉱山(旧)のところに、ガス鉱脈(新)を加えて四つの宝になっている。「ガス」をここで強調しているのは何だったかな。追々、覗いてみる。
富野監督が古代史について話すときに普段どういう本や学者を参考にしているかは、本人がたびたび喋っておられると思うが、わたしはこうして新旧で較べ、目を近づけて読むのは結構面白い。
わたしがその古代史専門のつもりではなくて、もしも二十年あまりの間にも著者の歴史観が変わっていたりしたらそこに文章の出入りがあると思うんだ。ここでは「ドーナツ現象」の語とカエサルの省略以外ほぼない。
文化、文明とは言っているけど「文化圏」という言葉は言っていない。たまたまここで使っていないだけで、ガンダム小説にもエッセイにもよく出てくるようだ。
で、この崩壊現象の起こるときがバイストン・ウェルにおいても「英雄の時代」となる、というのがここの本旨、だった。
読者として、こういう真面目に読んでいて「オタク的」とかは言われたくはないね。わたしはべつに歴オタではないが、ヘレニズムの時代等には最近よそで興味があった。
ゴゾの組織の人材を求めることについて、
現実的で柔軟な組織をつくろうという豪族や貴族がいても、しょせんはガダバの結縁かガダバを正義と信じることで生計をたてようとする者なのだから、ゴゾのしめす規範の枠外で物事を判断しようとする中庸さはもちえない。(新)
これに相当する旧版の文は『所詮は、ガダバの血縁である』。あえて結縁と書き直してあるけど、結縁(けちえん)というとふつう仏教の言葉でここの文意ではかえって奇妙にみえる。意味はわかるけど、なぜ書き換えているのかよくわからない。
あえて婚姻関係を結ばないが利害で通じている異民族の豪族も呼ぶことをそう言って含めたのかもしれない。たぶん結縁(けつえん)と読むべきだ。
〝ガダバを興した時、法令は四条しかなかった〟という古い自由さが、いつしか法令多出して官僚のすみかになっている現状を悔いながら、あらためてゴゾ・ドウ自身の決意、
治めるための真理ではあっても、治めることが真理か否かは知れぬことだ。ガダバの名を興し、諸国にこの結縁の存在をしめすためには、歴史的事実として固定しなければならない。
ここであらためて「結縁」、旧版はやはり血縁のところ。続く文章ではガダバを文化の柱とすべく三百年生かしたいといっていくので、やはり、ゴゾには文化圏的な意識で「結縁」と言っているようだ。歴史学などでこういう使われ方をするのか知らないところだが、ここでは重要な書き替えらしいぞ。
上の話が面白くて今夜ほとんど進んでいなかった。章のまだ始まったばかりだが、今夜ここまで。
「文化英雄」というとまた全然違う意味になるが……。文化の新興(旧)/振興(新)までを目途しながら、そうはなり切らなかった老覇王の生涯の長嘆息。これと、のちの『ガーゼィ』のズムドゥ・フングンとはだいぶ違うとは思う。
ゴゾの愛妾のヘテーラ・モスラム、完全版ではモッスラ、の名前が面白いと思っているけど、無論バイストン・ウェルの人名に地上的な何かと関係があるわけではない。
ヘテーラは古代ギリシアの高級遊女(ヘタイラ)の響きから付けていると思うが、一口に遊女や娼婦といっても高尚な趣味でサロンを持っているような文化人でもあった。ギギとも地位が違うか……。ゴゾの愛妾のこの人は側妾、正妻ではないが地位は高いと思う。やはり高尚な趣味の老女。またあとの章で出てくる。
モスラムがモッスラにわざわざ直された理由はわからない。他のキャラクター達も各々にこうした変更が多い。
ゴゾの読書中の書名は『北の伝承、マランバラの夢』。ゴゾ・ドウは民俗学や各地の伝承研究のようなものに造詣が深いらしく、ズオウ大帝の趣味ではなかったかな……。イデオン頃のことは遠くなって細かくは忘れた。カララがイワン・ナミとかコダン・シャアに問い合わせてトダイ、キョウダイ、ホックダイのクワニ・ヤナダ博士にも訊ねるくだりのことは憶えている。
八紘一宇のスローガンは旧版にだけ言及だが、わたしはこのまえ『王の心』のとき、物語以前に主人公のグラン王がカロッダ国を統一した経緯のことを八紘一宇ではないし……と、フローランド思想のことを日本語で何と言ったらいいかなと考えていたのを思い出した。
ここでもまた、天皇機関説を否定して開戦しながら、敗戦の際には天皇を引き出してその宣言をさせた人々のことを完全版は「ガロウ・ラン」と呼ぶ。
当たり前のことみたいだが、迫水が地上の戦争を反省するにも、日本が敗れただろう理由をアメリカ国の自由とか主義とか、イデオロギーで負けたとはまさか思っていない。彼我の戦力を省みず、戦争の仕方があまりに無惨だったと思い知っている。
『銀の……』の神楽歌から想起をはじめた迫水の感慨は、装備は乏しいながらも二百人の荒くれが行進する誇らしさの中で熟成するものがあって、
〝精神主義とはこの隊列のように、全体に横溢する気のことだ。人を逆上させることが、精神の涵養ではない〟
精神主義を否定したのではなく、精神主義はどうあるべきだったかを把握し直す。その違いは作中で大事だ。 なお、完全版の後の巻で「民族主義」についての考察も出てくると思う。それはこの時点の迫水の考えられる範囲をまた超えている。
〝かくや!〟
今はこう、だ。
「かくや」に、もしも文語的な解説がいるなら「かくやあるべき」……前に補うなら「戦の構えは、」かな。そんな前後はなくてもただ、「こうだったか!」という会心の感得、だけでいいよ。
まだ16章が全然進んでいないが、今日すでに他でつらつら書き連ねていて疲れていたようだった。ここまでにする。この「魂の修練の場」のあたりからここのテーマに多少は接する。今夜これだけ。
旧16終わり。完全版ではこのまま章が続く。夜間、ドラバロ城塞の背後を衝く。
旧版での騎馬隊の発進までのアマルガンとのやり取り、リンレイからの見送りのところは省略。代わりに完全版ではしばらく後の方に山岳小説めいた岩場のパートが詳しく補充される。
ゲリィについてとハロウについても回想あったが、今はリンレイに対して。ここでは迫水のロマンチシズム。「ロマン」というのは、世の中にある俗な言い方を省いて今言えば、「自分は何のために生きるかについて思うとき、それを、何に対して情熱を燃やし命を賭けられるか、とする態度」だと言ってみる。人間は必ずしも、それほどロマン的に生きている人ばかりではないかもしれない。だが、その生き方を選んだ人ならそう。
『リーンの翼』のこの章では、迫水の「青年のロマンチシズムのような思い」には男性として女性への情熱が不可分にある。ゲリィやハロウのことも今思えば、迫水はバイストン・ウェルに来てようやく青春に出会えたのだ。完全版では、「セクシュアルでロマンチックな」と言い足してもいる。セクシャリティという語には上で一回触れた。
迫水としてはこれから少女リンレイに全情熱を投入していきたい上で、彼女の猥雑なイメージをあらためて心の目に焼き付けながらも、
リンレイ・メラディに呑み込まれるような男では、あの女の魔性に伍してはゆけないはずだ。(旧)
まず俺は高い男にならなければと決心するところで、完全版では、
ただ女に呑み込まれるような男では、あの女王の女性性に伍してはいけないんだ。
「女の魔性」を「女性性」に言い換えてきた。迫水に「女性性」などいうボキャブラリーが元々あったのか怪しいが、上の文脈ではよりポイントを押えた言葉だと思う。迫水感覚ではそれでも女の魔性と言ってしまいそうな気はするけど、そんな女性観をすでにゲリィに笑われたことでもあり……。こうした処々は、女性の読者にとっても『リーンの翼』は読み返しに耐えるところだとわたしは思ってる。
「17 ガダバの前哨」(旧) 「11 ガダバの前哨」(新)後半
岩壁移動中の極度の緊張のさなか迫水に「法定」の精神修養にすがりたい気持ちが兆す。すでに実戦で殺人剣を使っている迫水にとって弱気だ、から始まり旧版では(やや唐突に)道場剣術、スポーツ剣道への酷評が長々と始まる。昭和の剣術小説のうちにもこういう論調の作家が一人ならずいたんだな……と思うが、富野作品では後の『ガーゼィ』に至る頃にはこのケンケンした調子は退いて、あらためてスポーツ剣道の実利を考え直すような筋になっていた。完全版ではわずか二行に省略。
剣法は本来殺人剣であるとか、
日本刀は、所詮、肉切り庖丁であろう。
こういう言い方だな。『刀は美術品ではない』というために、刀=肉切り包丁とか人切り包丁とかいう言い回しは、著者がそれを実感として自得したわけではないなら、先行作家の引き写しで引き続いているのではある。一面の真実で一時代の小説の風潮でもあるけど、2020年代にもこれをそのまま引用してはどうなのかと思う。
それと、旧版のこの数ページにわたる論の中で、
これは、日本人の癖である。
から始まり、「癖」と三回ほど言い続けられる。ルビはとくに振られていないが、前後に「性癖」「悪癖」とあるように、この癖は「くせ」ではなく「へき」と読む。これも読者のうちには当たり前に読む人と、世代によっては見慣れない人も今はいるように思う。
まあ、わたしは自分のここの記事にあまり読者を想定していないし、いたとしても『リーン』初読者向け記事じゃないとは思うけど、旧版のこの前後は今読むことにはちょっと注意かな。
既に書いたが、わたしは『リーンの翼』の旧作範囲の中で、迫水のもとで戦う若者らの名前といえば、しばらく時間が経てばクロス・レットくらいしか憶えていない。強情な田舎者のクロスが迫水を認めるくだりはやはり強い印象だったみたい。
この瞬間まで、迫水は、彼等を戦友とみなしていなかったのである。バイストン・ウェルに下りてからこのかた、そう感じる癖がついていなかったのだ。
ここは「くせ」と読む。上で無用な註釈は書かなければよかったかな。もう書いたし……。習癖、通癖の意味で読ませるときは「へき」だ。富野文でよく出てくるからとくに書いた。
これから砦に突入というところで完全版は章が変わる。旧版はまだ章が続く。このパターンは初めてだ。今夜ここまでにしようか。
今夜わたしは余計な文を連ねたのかもしれないが……原著者がその長い剣道論議をここでは無用として省略したらしいことと、一方で省略されない剣法のこととしては、『倒すべき相手も人であるならば……最大の力と敬意をもって倒してみせる』こと、また、一撃で苦しまずに倒してやることはここでくり返すし、後年の作品でも落としていない。ガンダムシリーズでもそう。
それは、今わたしは何度目という富野小説の周回再読だけど、このたびガーゼィ等の後の作品を読み込んだ後でこの新旧比較をしているので目につくようだ。たんに、リーンの新旧だけを読む人なら、それを作者の変化とは読むよりかは、読者の好き嫌いで昔の方が良かったと思うことかもしれない。「殺人剣」についての読者の趣味なら、とくにそうだろうと思う。富野作品中の殺人観の変遷がある。
2巻、ここまで読んでいて、ガロウ・ランという存在について『リーンの翼』新旧では印象が違うな。ムラブやミンはもとより、マラや、このあとも続くガダバの武将の悪党達もガロウ・ラン同然……というよりは直截にガロウ・ランと呼んでいくようだ。
リーン旧版だけのことなら、ガロウ・ランのイメージは『オーラバトラー戦記』に引き続きする、蛮族としての民族だろう。種族全体が野蛮で残虐無道の存在だが、あえてフェラリオ/ガロウ・ラン/コモンというバイストン・ウェルの根幹(魂の在りよう)にまでストーリー中では語らず、どうしようもない蛮風は人種的・民族的な書かれ方をする。
それが、AB戦記の4巻までの間にガロウ・ランの下らなさはそのままに、蛮族が文明人の文化を習得するときの侮れなさや、野蛮なりに愛嬌があってどこか憎めないような節が描かれていく。それは先日も少し触れた「文化圏」のような語に表す史観を語っている。『ガーゼィ』はその延長で、ガロウド族やガロウ・ランは憎むべき敵そのものではなくなっている。
完全版の『リーンの翼』は旧軍の悪を語るにも地上界に入り込んだガロウ・ランの憑依と言っていくのは、あらためてガロウ・ランを神話的存在として語り直していることか。(前巻でコモン人のアマルガンが「神話」という概念を理解しなかった件は今おいておいて、)小説作品に神話的構図を蘇らそうとしている完全版での意図が読める、と説明できる。ガロウ・ランが『リーン』の主要キャラクターではないが、作品に神話を再導入しようとしているのはやはり後半の現代編を見越してのことだろう。
作中、日本軍人の糾弾すべきをなぜガロウ・ラン呼ばわりするのかは、旧版にはないことなので、今かんがえた。空想上の存在に置き換えることでその非難や断罪をぼかしているのか、という前回の消極的な思案より、地上の歴史も作品世界に取り込もうとしていると読んでいく方が、よい。
「ガロウ・ランの憑依」でもっと前、もっとも有名だったのはドレイク。ギイ・グッガを征伐した後のドレイクは人が変わったように軍事や覇権に妄執するようになったと言って、ガロウ・ランのギィの霊に取り憑かれたとコモン人に噂された。 わたしはそれより、現在にバイストン・ウェル物語を読み返してもいまだにガロウ・ランについて熱心に語れる場がないとぼやいていた。「文化」という目線より先に超えたことは昨夜書いた。やりたかったんだな。
「17 ガダバの前哨」(旧)続き 「12 人質の楯」(新)冒頭部
新旧で章の切れ目が異例な入れ替わり方。旧版の17章が終わるところまで。短いが、わたしのコンディションもよくないので今夜これだけにする。
味方に先んじて門内に突入した迫水は阿修羅になり、あっという間に敵兵を二人斬る。そこで、剣が折れてしまう。
敵から奪った剣などはこんなものだ。(新)
完全版にだけ何故かそんな感慨が書き込まれる。この剣は前回レッツオ戦の最中に倒した敵から奪ったもので、中々の業物だとか何とか書いてあった気がするが、とにかくバイストン・ウェルの剣はよく折れるのと、時代小説でも合戦で刀の耐久度には諸説ありそうかな。
前回の交響曲第1番からのつづき。バイオリンやビオラ協奏曲なら別宮貞雄のそれもまたとても好きだけど、今その連想じゃなかったので今度にする。
「18 デダン・バランダの狂気」(旧) 「12 人質の楯」(新)つづき
狂気の場。「貴様、何者なんだっ!」と狼狽した将兵が叫ぶとき、旧版では、迫水は落下した少女を拳銃で射殺している。気違いかぁっ!?のところは、『真っ当か』『奴は獣だ』に出版コード上の訂正がされるが、そういう問題ではないしようのなさを感じる。
再び出現したリーンの翼には、
よく見ると靴の内側にも小さく翼が見える。(旧)
と、旧版では前回は書かれなかった四枚羽の詳細がここで初めて書かれる。
旧版では、確かに俺は地上人だに続き、『地上人の迫水真次郎、聖戦士の迫水真次郎である』とおっ被せて名乗るが、完全版では、『地上人の迫水真次郎である!』とだけに短縮されている。
それにデダンが、『嘘だっ! 現代に聖戦士が現われることなどない!』と叫ぶので、完全版では聖戦士とはとくに言っていないことに答える。リーンの翼を目の当たりに見ながら、見ても信じられないと言い張ることには違いない。
章おしまい、旧版2巻読了。今夜ここまで。
戦闘後、アマルガンと合流して会話中――「俺にとっては、自力でアマルガンに認められたかった。そいつは、ゲリィに対してもハロウ・ロイに対してもだ」に続き、
些細にみえるが、アマルガンの迫水理解度にプラスと、やはり旧版の声で喋っているような印象かテレパシーかの書き分けが加筆。
この会話の後がまた、
迫水は、ニタリと笑うと右の手を少しばかりあげてみせた。 アマルガンもまたそうして応じてくれた。(旧)
迫水は、ニタリと作り笑いをして、右手を少しばかりあげてみせた。アマルガンもそうしてから、ガッシリと両肩を抱いてくれて、いってくれた。(新)
として、完全版では、続くアマルガンの一言の台詞で章が締められる。実は、ここの「男振り」という語は、旧版の章中に迫水の心の内の気概としてあり、迫水のロマンチシズムをくり返していた。良いところだが、完全版ではそこを短く省略し、章の末尾にあらためてアマルガンから迫水へ送る言葉としている。これも、新旧比較で読んでわかる、印象を強めるところだ。
「19 海の声」(旧) 「13 ゲルドワの噂」(新)
リンレイの教育をしたガンビア・アムという旧臣は、概念的にはリンレイ・メラディの血筋、その属する領地のありようなどを教えてくれた。しかし、そのうえにガンビアは、リンレイが現実的な生き方を出来る女性に育つようにも腐心した。(旧)
この「概念的には」は完全版では「蓋然的には」に改められている。富野作品の蓋然的な言い方についてこれまでも思案がくり返したが、ここにきて、わたしの読むところではやはりここは「概念的」が意味として合ってる気がしてならない。しかも、あえて意図して書き直しているところだ。
家系の歴史や領地経営の何たるかについて、ガンビア氏なる旧臣の授業の内容が変わらなくても、本文でその評価を「概念的」「蓋然的」と言い替える区別はある。
ガンビアの講義は幼いリンレイの初学として、まず貴族としての考え方・心構えを伝授する座学として始まった。そのために家系学や経営学でする言葉の意味や、初歩の理論を説いたが、「では領地に行って実際にやってみましょう」というものではない。概論をやってくれた。
ここまではいいとして、それを蓋然的にというときには、説明のために「範型」や「定式」を多く示してくれたが、これはあくまで生徒にわかりやすくするために定式化してみせた、模式であるが、という条件付きのニュアンスが文に含む。もっとも、この後に続く文章では、ガンビアはそれにこだわらず、リンレイが現実的な生き方ができるようなトレーニングに腐心してくれた、と続く。
逃亡生活の十年のうち、表向き海賊のような暮らしをしながら、人目に触れないところでは、ガンビアはリンレイを女王たるべく英才教育した。躾けをした。
その為に、リンレイは、人並みに剣を使え、高貴な者としての身のこなし方と言葉づかいを覚え、しかも、下賤な者の口のききようから、男言葉を使い分けることが出来るようになっていった。(旧)
そのために、リンレイは、人並み以上に剣をつかい、下賤な者の口のきき方から男言葉を使い分け、それでいて、高貴な者としての身のこなし方と言葉づかいを覚え、貴族的な規範も身につけていたのだ。(新)
貴族的な規範が追加。富野作中の「規範」の語については以前に扱った。貴族としてのふるまいのコード、当たり前にすること。 以下、わたしの最近の雑想中より、
井荻麟詞では愛し合うことも「愛する作法(しつけ)」と呼んだりもする。「英才教育」といえる。
老キャメロットの追放のいきさつについて語るイェヘィシアや、キャメロットは、語る中でメラディ家の先代(リンレイの父)のことを「先帝」と呼んでいるが、完全版では「先王」に訂正。帝の称は旧の感覚でもさすがに異様にみえる。
正面にガルシュンガムの火山を望む、このあたりに、赤虫の蝟集する窪地の南、北北東に向いた洞窟がございます。(旧)
正面にガルシュンガムの火山を望むこのあたりに、赤虫の蝟集する窪地の下、右手上に向いた洞窟がございます。(新)
バイストン・ウェルにも東西南北の区別らしきものはあるが、地磁気のようにはっきりとした概念でなく、地域によるオーラの分布を指す曖昧な表現だと前の章にあった。一々わからないので方角の表現からはそれは省く方針のよう。
ガダバの発祥を「北方の地」と呼ぶことは一貫して変わらず。北=荒れた辺鄙な地、という意味ではないと思う。 異世界の南北談義についてはわたしは富野作品以前に別で話し込んだことがあった。磁針の指すところにあるものが磁極、または、世界の中心で、そのある方向のことを「北」と呼んでいるのだという……その話は省く。
旧19章おわり。今夜ここまで。
リンレイはその体内に恣意を発動させたのである。……というが、この章で三回ほど使われた「恣意」はほとんど「性欲」ともいう意味で、一般的に恣意の語について聞くことではない。意味はわかるが、やはり変な意味にきこえる。
手元でたぐったところ、
ガンダムを書き始めた時に意識したことは、ロボットが活躍しなければならない疑似SFの世界に、人の記憶(別の言い方をすれば、恣意)を投入することはできないだろうか、と夢想したことに始まります。 (『ファウ・ファウ物語』あとがき)
この女を満足させられた時は、儂は、世界一の王であろう、とドレイクは思う。その底には、ギィ・グッガ的な恣意を受け入れる素地ができあがっていることに彼は気づいていない。 (『オーラバトラー戦記』3)
これらのあたりの「恣意」の使い方が挙げられる。こうなると「情念」とか「衝動」に近いのでは。ブレンでいうときの「エモーショナルなもの」というとき。ただ、恣意の語自体にはやはりその意味はなく、今思ったのは、先ほど上に書いた「規範」と対置するものとしておけば良さそうに思えた。
富野文中でも「恣意的に」というときには、それはごく一般的な意味で使われると思うから、「恣意」についても富野ファンなら大体見たことはあるはずだが、ここに割り込んでくる特殊ジャンル的な感じが説明のしにくいこと。
「20 再会」(旧) 「13 ゲルドワの噂」(新)つづき
「聖戦士殿かっ!」 迫水は、もうこの呼称に抵抗を示すことはなかった。既に、幾度か空をも飛翔した身であってみれば、拒否することの方がおかしかった。謙遜が過ぎて、卑屈な戦士だと悪しざまに言われることは決して良いことではなかった。
『指揮官ともなれば、兵たちの信望を受け、それに応えてゆかなければならない』以下の説明が続く。ここだけを読むと当たり前のような話だが、このことは後の作品までくり返す、富野小説中の重要ポイントだったりする。『ガーゼィ』のクリスは最初は一見して卑屈なキャラクターかのようで、最近読み返したところでは結構がんばって自我を保っていてわたしは考え直した。
これに続いて完全版では、ビナー・ヘッゲモンの講義によるガダバの侵略地での圧制の異常さを語る。人殺しと収奪だけをしているといって、ガロウ・ランとはビナーはいっていないにもかかわらず、迫水の思いには、
〝ビナーの言葉どおりなら、日本軍の高官たちはガロウ・ランの寄せ集めということになる……〟
完全版でのガロウ・ラン観については上記まとめ。戦前の横浜の開かれた雰囲気を知って育った迫水には、日本が神国化していく過程は今思えば『どう考えてもガロウ・ランの仕業に思えないではない』となる。
ここに、もっと確かなものを戦争目的に据えたい、という迫水の思いが加わって今の『卑屈にしている暇はない』になるから、ここの文章は旧版・完全版併せて読み返すだけの、あらためて考えてみる重層的な意味がある。
どう考えても……思えないではない という言い方は読んでなんだか変な気持ちがするが、そこはいま気にしないでいよう。
メラッサという若者はアマルガン一統のグズロ以下の傭兵の一人で、旧版では一巻に「メラッサ・ムスターマ」と紹介されていた。完全版では「メラッサ・バサ」。そのあと、旧版二巻ではおおむね「ムスターマ」と呼ばれていてわたしは較べ読んでいたがそれほど気にしなかった。
二巻のドラバロの狂気の部屋に突入するまえに、
ビラッワルともうひとり、迫水は彼の名前を忘れていた。その二人は、長槍で立ち向う兵をめった斬りにしていた。(旧)
という、迫水が忘れているもう一人のほうが、完全版ではメラッサ。この20章でも若者達の列挙中にメラッサ省かれているのが、完全版で補ってある。読者にわからないところで地味に浮上しようとしている彼。
完全版のリンレイの髪は赤茶色、旧版では金髪、と前回(旧15/新10)書いていたが、完全版13のここでは金髪と書いてある。
リンレイの美しさに下馬することも忘れて見とれ、狼狽し、次に馬から飛び降りる迫水だが、新旧では印象が異なる。旧版では、しどろもどろな迫水を観察する彼女の目に「ムッとした」感情が差したと同時に、こんなまずい受け答えは危険だと気付いた瞬間、迫水の体が馬の背から跳び、リンレイの直前に落ちて片膝を付く。その挙動はまるでリンレイを襲うかのように見えるほど、迫水の激情の迸る行動だ。
完全版では、その一瞬の複雑な感情の行き交いが省略されて迫水は狼狽して下馬し、リンレイを襲うように見えたその挙動も「乱暴、粗雑」とだけある。
「お会いしたかった。会えて嬉しいのです」
の台詞は、旧版では唇は震えているものの、逡巡を払って『なぜそう出来たのかは分からなかった』というほど、迫水の意思を押し出すもの。咄嗟のこの挙動のおかげで迫水はリンレイに負けなかったような文の印象。完全版では、
ふるえる唇に抗うようにしゃべったつもりだが、意識は感受されているのは明白だった。
迫水はやはり、形なしだった、という書き替え。ここも完全版のテレパシー描写の補足の上で、リンレイの独擅場のようになっている。
この新旧は全く「読者の好みのちがい」のようになってしまうが、旧版の迫水は、この場でも格好いいんだよ。野獣みたい。「そう出来た」はポジティブだ。なんで、あえて格好悪く書き直すのか?のように睨んで読んでしまう。章の途中だが、今夜ここまで。
いま、エリアーデの『世界宗教史』からの横道で、シュメール学者サミュエル・クレーマーの自伝『シュメールの世界に生きて』を読み返している。このうちの六章「英雄たち」のところは、ここの『リーンの翼』の前回のはなし……ガダバの結縁のような話の、「英雄時代」を考えるときに面白い。
内容を紹介すると長くなるが、章は、ギルガメシュ叙事詩(ギルガメシュ物語)のアッシリア語版とシュメール語版の発見・研究史のあらましから、エンメルカル、ルガルバンダも加えてシュメールにおける「英雄時代」が浮かび上がってくる――というところ以降。古代インド・ヨーロッパ語族の……という語り出しではあるけど、ここにはたぶん必ずしも歴史学のセオリーではなく、クレーマー自身の"インスピレーションの得方"がスリリングなところがあって、また思い出せば再読しておく。
ギリシア、インド、ゲルマンの英雄時代とシュメールのそれとが、社会構造・宗教・叙事詩文学と挙げていくほど「驚くほど似ているように思われた」から発して、シュメール人は、もとメソポタミアに先住、先行する集団の高度な文明地に侵入してこれを征服した人々だっただろう――との推測をさせるものはその英雄詩にある、という大まかな筋書き。
先シュメール文明には2020年代の今もなお、学問の場でははっきりしていないだろうと思うけれど、この思考の飛躍が今読んでも面白いと思う。飛躍といって、空想を語っているわけではないが。紀元前三〇〇〇年頃から古代ギリシア・インド頃の時代間や、地上界と異世界の間について「英雄サーガの成り立ち、語られ方のパターンが似ている」と思う発想のところ。その発想自体はゴゾ・ドウにも似ている。
「21 徒党」(旧) 「13 ゲルドワの噂」(新)更に続き
書き出しから、やはりなんで書き改めているのかわからない。どっちにしても、山並みの峨々や巍峨という「鋭く尖った印象」ではなく、「広々として果てしなく荒涼としていること」、渺茫とか茫漠とかいう。草木の一つもない、というわけではなく、山裾には原生林が続いている。
強獣。小物はここまでもちらほらと登場していたが、この章で主役になる巨大な強獣「ドラゴロール」について。龍に似た強力で狂暴な生き物。ガロウ・ランの間にはドラゴロールの急所についての言い伝え等もあるが、あやふやで真偽は全く確かでない。
同族らしき龍種には『オーラバトラー戦記』に登場するドラゴ・ブラーがいる。ドラゴ・ブラーは龍に似た蛇体に翼をもつ翼竜。ギィ・グッガの手勢に飼われているが、ガロウ・ランにしてもドラゴを飼い慣らした例はなくて、たしか作中が初めてとされていた。
ドラゴロールは後のシリーズ『ガーゼィの翼』にも再登場する。ガーゼィではドラゴロールは無限平野ガブジュジュの地に棲む「最近生まれた種」らしいといわれていて、生態が全く分かっていない。巨大な狂暴なだけに留まらず、自然の生物とは思えないようなある種の能力も備えている。ドラゴロールの上位種という「ゲッグ」も存在する。ゲッグには知恵さえ備える。
完全版1巻の402ページ「聞きなれた声のおかげて、」このたび再読で初めて完全版の誤植らしいものを見つける。意外。旧版のカドカワノベルズも校正はかなりまめで信頼できる。
リンレイと会って女性観の激変・革新だった迫水の内的体験のおさらい……レッツオ以後の章を詳しく読み込んでいればくり返しになるが、女性観の話をちょっと外れて、この中に、前回挙げた「恣意」の語の使い方の、別の例がある。その復習をしてみる。
地上界の日本にあった迫水は、ただ護国の為に心血を注いで身を挺する、という行動様式の中に自分を封じ込めていけばよかった。 恣意するものが、直線的で許された社会にいたと表現できる。(旧)
だから、日本にいてただ護国のために心血をそそいで身を挺するという行動様式のなか、自分を封じ込めていくだけですんだ生き方は楽であった、とも理解できるようになった。軍国主義的な生き方は、直線的だったということなのだ。(新)
いかにもわかりにくい。完全版では表現から除かれているくらいなので、説明のためにとはいえ、挙げるには悪い例といえる。
生きているかぎり、個人のなかの欲求とか欲望というものはある。この文中では、「自分」と書いてあるところは新旧に共通してそれかもしれない。「自由」という語は、完全版では近い段落に「自由恋愛などは…」とも、かすかにあるが、自由から隔離されていることが許されていた、といえば、現代の読者にはなおわかりやすいだろうか。
後のブレンパワードくらい経ているので「エモーショナルなもの」というと富野文脈では分かりやすいが……エモーションを恣(ほしいまま)にするは、単語としてはあたりまえなので、とくに作劇以外の話には通じない。
「健やかさ」というのとは違う。その発露を塞がれると鬱積するのはたしかだが、「恣意」と言う中に健康とか健全という価値評価は含んでいない。
ガロウ・ラン的な恣意の放出はとくに、邪悪であると言っていきたい。放出……発動かな。もうちょっとトミノ界隈的なボキャブラリーの良いところを捜したいね。
もう一回、ロマンチシズムを今挙げてみよう。世の中でいう普通の言い方をやめてわたしなりにいえば、ロマンとは「自分は何のために生きるかについて思うとき」と前回いった。それはわたしの言い方だ。
上の迫水についても、完全版では「恣意」を省いた代わりに、文章には「生き方」を書き込んでいるだろう。生き方を求めようとすることに食いついていく読者には、アレ…のような他人事のようには、簡単には放さないと思う。
章おわり。旧21/新13の章の切れ目は同じ。
それは、この地の特異な匂いの感じさせることなのかも知れなかったし、迫水の感じすぎなのかも知れなかった。 しかし、こうしてキャロメットと接していると、なにかもっと異なった恣意的な悪意といったものが、周囲に漂っているように感じられて仕方がないのだ。
また「恣意」だが、「恣意的」という使い方をされるときには富野文もあまり気にしなくていい……ようなことを上で一度は書いたが、ここの「恣意的」の用法も直前と同じように、やはり怪しい。
自然物でない、人為あるものの意図、少なくともその志向を感じるというようだ。志向性と言ってくれたほうがわたしは分かるかもしれない。
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旧15/新10章おわり。おそろしく難しい場面を書いている。読み終えたときに背筋がぞくっとした。小説を読んでその戦慄は、また久し振りだ。
細かい比較点を補う。
完全版では「………」とか「……!?」といった旧版にある符牒のところは行を詰められがちだが、ゲリィについての感応を呟いた迫水とアマルガンの間にある理解の「……!?」は完全版のほうに一文、それが補われている。こまかい。旧版ではこの後、海岸であらためてアマルガンを呼びにコムがやられている。
リンレイは新旧で髪の色が異なる。旧版では赤茶色、完全版では金色。
→追記(新13)
レッツオ戦後の数日、多事に忙殺されながら迫水は夜には酒浸りになりながらとりとめない思案は旧版にまた続く。完全版では浦島太郎について考えたまでで省略。実戦を反芻し、特攻についてもたびたび考えあぐねた結果、旧版ではついに「心理戦」についての洞察に踏み込む。ここでは〝気〟をベースにする思想で、もちろんサイコミュではないが、富野文脈では後年くり返しにもなるので慣れて読めるといいと思う。
リンレイから迫水に、決して激昂することなく「女性の痛み」を切り札のように言い放つのは、並の少女には言えることではないし、小説家も相応の覚悟がなくて書けることではないと思う。それに重ねて畳み掛ける言葉は、
言葉の応酬の迫力は凄いものだ。わたしはこの二週間ほど「男子の恥」を別記事でひっくり返していながら、「女性の恥」についてはシドロモドロになりがちなことはよく分かるが……。この章の最後の台詞がまた、新旧では「言葉か、テレパシーか」の意味付けが大きく分かれている。これほど違うものなら両版は別物になる。
王女様の救出を甘ったるく書こうと思えばこんな超難しいシチュエーションを設けなくとも、颯爽と飛んで無傷で回収するノベルは無限にある。リンレイの性格を「都合のいい女」にもしたければ容易いものを、ハードモードを立てておいて彼女の心理をリアリティを持って推理していくのは、わたしは読んでいて言いようがなく腹立つ。
新海底軍艦
『リーンの翼』に入る前に、菅野よう子音楽の続きで「エスカフローネ」を前回聴いていた。これはこれで良いものだけど、バイストン・ウェル的な気分には結局ならんかった。「ワーグナーみ」のような楽しみはわたしにある。
しばらく音楽の気分が途切れてしまい、意気消沈している間、∀ガンダム頃までの時期的な連想から「青の6号」(1998年のOVA)とTHE THRILLの昔のアルバム等聴いていた。青の6号は別にそのうち見直そうと思った。この気分はバイストン・ウェルと関係ない。
潜水艦つながりでクラウス・ドルディンガーの「Das Boot (Uボート)」のサントラ(1981)を聴く。わたしはドルディンガーはジャズ方向の趣味から彼のバンドのエアポート等を聴いていた頃がありつつ、サントラは聴いたことがなかった。これはこれで良い収穫だと思い、そのついでで「海底軍艦」(1963)を聴こうと思った。それが、今日すぐ手元にはない。
わたしは今になると伊福部昭の音楽を聴くともう伊福部昭にしか聴こえないのでもある……。お弟子の和田薫さんの音楽は富野アニメに案外合うのでは?と思ったことはあるけど、その接点はなかったようで残念だ。それで「新海底軍艦」(1995)を聴こうか、と思いついてきた。天野正道音楽にはガーゼィのときに少しだけ触れていて、そのときにその気はとくになかった。
交響組曲第一番 (「天野正道交響組曲セレクション」所収、ワルシャワフィル)
交響組曲第一番 吹奏楽版(「Masamicz Amano: Morceau par 1er. Suite Symphonique」所収、川越奏和奏友会吹奏楽団/佐藤正人指揮)
『リーンの翼』の小説を読んでいる間は、迫水のここまでの物語はそれほど勇壮なヒロイックになっておらず、どっちかというと奇っ怪で幻妖世界を漂流しているところ。おもにフェラリオの印象。海軍のような軍楽的な気分ではない。
特攻について長く思いを耽っているときにも、やはり傷心の気分、ペシミスティックな響きだろうと思う。それを強くすると「マッチョのための音楽」とも去年には表現していた。ちょうど溝口・菅野からの連想になるなら、「人狼」。
ただ、それとも今ひとつそぐわないようで、太平洋戦争を考えているときは「映像の世紀」(加古隆)みたいな気分だ。それはむしろ、完全版の後半、3巻の印象はそれだと思う。加古隆は、わたしには耳に痛いくらいやはり感傷的な作品が多くて、「責められている気がする」とも前に書いた。ギルト感情がある。アニメばかり聴いているわけではないけど、劇音楽の蒐集と興味は以前に多少あったのでついでに思い出す。
樋口康雄は今聴かない。ガンダムXと火の鳥2772は今度聴く。
「海底軍艦」今はサウンドトラックを聴く。SF交響ファンタジーの3番より、のような印象になりつつある。
上でも書いたが、わたしは今、伊福部昭を聴いて伊福部音楽の年譜以外に連想しなくなってきている。ゴジラを聴いてもゴジラのイメージが湧かないくらい。
別宮貞雄 交響曲第1番
昨夜から気持ちに引っかかっていたのだけど、いま聴いてみてやっと腑に落ちたらしい。この交響曲第1番(1961)を『リーンの翼』のイメージと重ねたことはなかった。
別宮貞雄を聴き返しているのは前から。わたしは主に「有間皇子」からの関心の続きで、この1番にも音楽の外にその連想がもともとある。印象裡には蘇我赤兄や鯯魚の場面が浮かぶ。その凄惨で、悲惨で陰惨だが同情はしかねるような、客観的にはコミカルでさえあるストーリーの絵巻が流れ、ちょうどリーンの翼でいう『真に、惨……』というような複雑な感情になっていた。全体的にふわふわした曖昧な感じがここまで1,2巻の、わたしの印象にあったのはこれだったみたいだ。この4楽章は南極観測隊の記録映画のための音楽が元らしく、活劇めいた雰囲気もかなりある。
別宮貞雄は終戦のときにはひたすら「解放」と捉えていたという理学生で、かつての迫水のようないわゆる軍国青年とは程遠い。当時から反戦のインテリではある。交響曲では、さらに後の第4番(1989)が自身の戦時中の記憶をたどった「夏1945年」という表題になるが、それはこのあと、次回聴こう。1,2,4番かな……。今夜はここまでにする。文芸や音楽の、個人的な連想が繋がる夜は良い気分だ。
「16 接敵」(旧)
「11 ガダバの前哨」(新)前半部
ガダバの総帥ゴゾ・ドウ登場。わたしはこの人の話が今回の大きな興味でもあって楽しみ。ゴゾ・ドウのプロフィールと、ガダバ覇権に及ぶにあたっての文明論的な史観のようなものが語られるのだが、アレキサンダー大王、チンギス・ハーンを挙げていてシーザーの名は完全版では省略。
旧版の文でも、シーザーの擁立には高度な政治的な意思を汲むべきである(=シーザー個人の英雄性に求めるべきでない)のような曖昧な言い方で、まぎらわしいので省略されたみたい。拡大しきった文化の発祥地である中心部はもっとも爛熟・頽廃し、一方で、周辺に拡散した文化を学んだ被征服者達が勢力を強める……という運動をとくに完全版では「ドーナツ現象」というが、この例にはローマ帝国をイメージするのが容易いだろうとわたしは思う。
この論の内容は新旧でほぼ同一だけど、話の順序が細かく入れ替わっている。
チッの国の攻略にあたって奪取すべき三つの砦――金、銀、クリスタル鉱山(旧)のところに、ガス鉱脈(新)を加えて四つの宝になっている。「ガス」をここで強調しているのは何だったかな。追々、覗いてみる。
富野監督が古代史について話すときに普段どういう本や学者を参考にしているかは、本人がたびたび喋っておられると思うが、わたしはこうして新旧で較べ、目を近づけて読むのは結構面白い。
わたしがその古代史専門のつもりではなくて、もしも二十年あまりの間にも著者の歴史観が変わっていたりしたらそこに文章の出入りがあると思うんだ。ここでは「ドーナツ現象」の語とカエサルの省略以外ほぼない。
文化、文明とは言っているけど「文化圏」という言葉は言っていない。たまたまここで使っていないだけで、ガンダム小説にもエッセイにもよく出てくるようだ。
で、この崩壊現象の起こるときがバイストン・ウェルにおいても「英雄の時代」となる、というのがここの本旨、だった。
読者として、こういう真面目に読んでいて「オタク的」とかは言われたくはないね。わたしはべつに歴オタではないが、ヘレニズムの時代等には最近よそで興味があった。
ガダバの結縁
ゴゾの組織の人材を求めることについて、
これに相当する旧版の文は『所詮は、ガダバの血縁である』。あえて結縁と書き直してあるけど、結縁 というとふつう仏教の言葉でここの文意ではかえって奇妙にみえる。意味はわかるけど、なぜ書き換えているのかよくわからない。
あえて婚姻関係を結ばないが利害で通じている異民族の豪族も呼ぶことをそう言って含めたのかもしれない。たぶん結縁 と読むべきだ。
〝ガダバを興した時、法令は四条しかなかった〟という古い自由さが、いつしか法令多出して官僚のすみかになっている現状を悔いながら、あらためてゴゾ・ドウ自身の決意、
ここであらためて「結縁」、旧版はやはり血縁のところ。続く文章ではガダバを文化の柱とすべく三百年生かしたいといっていくので、やはり、ゴゾには文化圏的な意識で「結縁」と言っているようだ。歴史学などでこういう使われ方をするのか知らないところだが、ここでは重要な書き替えらしいぞ。
上の話が面白くて今夜ほとんど進んでいなかった。章のまだ始まったばかりだが、今夜ここまで。
「文化英雄」というとまた全然違う意味になるが……。文化の新興(旧)/振興(新)までを目途しながら、そうはなり切らなかった老覇王の生涯の長嘆息。これと、のちの『ガーゼィ』のズムドゥ・フングンとはだいぶ違うとは思う。
ゴゾの愛妾のヘテーラ・モスラム、完全版ではモッスラ、の名前が面白いと思っているけど、無論バイストン・ウェルの人名に地上的な何かと関係があるわけではない。
ヘテーラは古代ギリシアの高級遊女(ヘタイラ)の響きから付けていると思うが、一口に遊女や娼婦といっても高尚な趣味でサロンを持っているような文化人でもあった。ギギとも地位が違うか……。ゴゾの愛妾のこの人は側妾、正妻ではないが地位は高いと思う。やはり高尚な趣味の老女。またあとの章で出てくる。
モスラムがモッスラにわざわざ直された理由はわからない。他のキャラクター達も各々にこうした変更が多い。
ゴゾの読書中の書名は『北の伝承、マランバラの夢』。ゴゾ・ドウは民俗学や各地の伝承研究のようなものに造詣が深いらしく、ズオウ大帝の趣味ではなかったかな……。イデオン頃のことは遠くなって細かくは忘れた。カララがイワン・ナミとかコダン・シャアに問い合わせてトダイ、キョウダイ、ホックダイのクワニ・ヤナダ博士にも訊ねるくだりのことは憶えている。
かくや!
八紘一宇のスローガンは旧版にだけ言及だが、わたしはこのまえ『王の心』のとき、物語以前に主人公のグラン王がカロッダ国を統一した経緯のことを八紘一宇ではないし……と、フローランド思想のことを日本語で何と言ったらいいかなと考えていたのを思い出した。
ここでもまた、天皇機関説を否定して開戦しながら、敗戦の際には天皇を引き出してその宣言をさせた人々のことを完全版は「ガロウ・ラン」と呼ぶ。
当たり前のことみたいだが、迫水が地上の戦争を反省するにも、日本が敗れただろう理由をアメリカ国の自由とか主義とか、イデオロギーで負けたとはまさか思っていない。彼我の戦力を省みず、戦争の仕方があまりに無惨だったと思い知っている。
『銀の……』の神楽歌から想起をはじめた迫水の感慨は、装備は乏しいながらも二百人の荒くれが行進する誇らしさの中で熟成するものがあって、
精神主義を否定したのではなく、精神主義はどうあるべきだったかを把握し直す。その違いは作中で大事だ。
なお、完全版の後の巻で「民族主義」についての考察も出てくると思う。それはこの時点の迫水の考えられる範囲をまた超えている。
今はこう、だ。
「かくや」に、もしも文語的な解説がいるなら「かくやあるべき」……前に補うなら「戦の構えは、」かな。そんな前後はなくてもただ、「こうだったか!」という会心の感得、だけでいいよ。
まだ16章が全然進んでいないが、今日すでに他でつらつら書き連ねていて疲れていたようだった。ここまでにする。この「魂の修練の場」のあたりからここのテーマに多少は接する。今夜これだけ。
旧16終わり。完全版ではこのまま章が続く。夜間、ドラバロ城塞の背後を衝く。
旧版での騎馬隊の発進までのアマルガンとのやり取り、リンレイからの見送りのところは省略。代わりに完全版ではしばらく後の方に山岳小説めいた岩場のパートが詳しく補充される。
ロマンチシズムの中のセクシャリティ
ゲリィについてとハロウについても回想あったが、今はリンレイに対して。ここでは迫水のロマンチシズム。「ロマン」というのは、世の中にある俗な言い方を省いて今言えば、「自分は何のために生きるかについて思うとき、それを、何に対して情熱を燃やし命を賭けられるか、とする態度」だと言ってみる。人間は必ずしも、それほどロマン的に生きている人ばかりではないかもしれない。だが、その生き方を選んだ人ならそう。
『リーンの翼』のこの章では、迫水の「青年のロマンチシズムのような思い」には男性として女性への情熱が不可分にある。ゲリィやハロウのことも今思えば、迫水はバイストン・ウェルに来てようやく青春に出会えたのだ。完全版では、「セクシュアルでロマンチックな」と言い足してもいる。セクシャリティという語には上で一回触れた。
迫水としてはこれから少女リンレイに全情熱を投入していきたい上で、彼女の猥雑なイメージをあらためて心の目に焼き付けながらも、
まず俺は高い男にならなければと決心するところで、完全版では、
「女の魔性」を「女性性」に言い換えてきた。迫水に「女性性」などいうボキャブラリーが元々あったのか怪しいが、上の文脈ではよりポイントを押えた言葉だと思う。迫水感覚ではそれでも女の魔性と言ってしまいそうな気はするけど、そんな女性観をすでにゲリィに笑われたことでもあり……。こうした処々は、女性の読者にとっても『リーンの翼』は読み返しに耐えるところだとわたしは思ってる。
「17 ガダバの前哨」(旧)
「11 ガダバの前哨」(新)後半
岩壁移動中の極度の緊張のさなか迫水に「法定」の精神修養にすがりたい気持ちが兆す。すでに実戦で殺人剣を使っている迫水にとって弱気だ、から始まり旧版では(やや唐突に)道場剣術、スポーツ剣道への酷評が長々と始まる。昭和の剣術小説のうちにもこういう論調の作家が一人ならずいたんだな……と思うが、富野作品では後の『ガーゼィ』に至る頃にはこのケンケンした調子は退いて、あらためてスポーツ剣道の実利を考え直すような筋になっていた。完全版ではわずか二行に省略。
剣法は本来殺人剣であるとか、
こういう言い方だな。『刀は美術品ではない』というために、刀=肉切り包丁とか人切り包丁とかいう言い回しは、著者がそれを実感として自得したわけではないなら、先行作家の引き写しで引き続いているのではある。一面の真実で一時代の小説の風潮でもあるけど、2020年代にもこれをそのまま引用してはどうなのかと思う。
それと、旧版のこの数ページにわたる論の中で、
から始まり、「癖」と三回ほど言い続けられる。ルビはとくに振られていないが、前後に「性癖」「悪癖」とあるように、この癖は「くせ」ではなく「へき」と読む。これも読者のうちには当たり前に読む人と、世代によっては見慣れない人も今はいるように思う。
まあ、わたしは自分のここの記事にあまり読者を想定していないし、いたとしても『リーン』初読者向け記事じゃないとは思うけど、旧版のこの前後は今読むことにはちょっと注意かな。
既に書いたが、わたしは『リーンの翼』の旧作範囲の中で、迫水のもとで戦う若者らの名前といえば、しばらく時間が経てばクロス・レットくらいしか憶えていない。強情な田舎者のクロスが迫水を認めるくだりはやはり強い印象だったみたい。
ここは「くせ」と読む。上で無用な註釈は書かなければよかったかな。もう書いたし……。習癖、通癖の意味で読ませるときは「へき」だ。富野文でよく出てくるからとくに書いた。
これから砦に突入というところで完全版は章が変わる。旧版はまだ章が続く。このパターンは初めてだ。今夜ここまでにしようか。
今夜わたしは余計な文を連ねたのかもしれないが……原著者がその長い剣道論議をここでは無用として省略したらしいことと、一方で省略されない剣法のこととしては、『倒すべき相手も人であるならば……最大の力と敬意をもって倒してみせる』こと、また、一撃で苦しまずに倒してやることはここでくり返すし、後年の作品でも落としていない。ガンダムシリーズでもそう。
それは、今わたしは何度目という富野小説の周回再読だけど、このたびガーゼィ等の後の作品を読み込んだ後でこの新旧比較をしているので目につくようだ。たんに、リーンの新旧だけを読む人なら、それを作者の変化とは読むよりかは、読者の好き嫌いで昔の方が良かったと思うことかもしれない。「殺人剣」についての読者の趣味なら、とくにそうだろうと思う。富野作品中の殺人観の変遷がある。
ガロウ・ランの神話
2巻、ここまで読んでいて、ガロウ・ランという存在について『リーンの翼』新旧では印象が違うな。ムラブやミンはもとより、マラや、このあとも続くガダバの武将の悪党達もガロウ・ラン同然……というよりは直截にガロウ・ランと呼んでいくようだ。
リーン旧版だけのことなら、ガロウ・ランのイメージは『オーラバトラー戦記』に引き続きする、蛮族としての民族だろう。種族全体が野蛮で残虐無道の存在だが、あえてフェラリオ/ガロウ・ラン/コモンというバイストン・ウェルの根幹(魂の在りよう)にまでストーリー中では語らず、どうしようもない蛮風は人種的・民族的な書かれ方をする。
それが、AB戦記の4巻までの間にガロウ・ランの下らなさはそのままに、蛮族が文明人の文化を習得するときの侮れなさや、野蛮なりに愛嬌があってどこか憎めないような節が描かれていく。それは先日も少し触れた「文化圏」のような語に表す史観を語っている。『ガーゼィ』はその延長で、ガロウド族やガロウ・ランは憎むべき敵そのものではなくなっている。
完全版の『リーンの翼』は旧軍の悪を語るにも地上界に入り込んだガロウ・ランの憑依と言っていくのは、あらためてガロウ・ランを神話的存在として語り直していることか。(前巻でコモン人のアマルガンが「神話」という概念を理解しなかった件は今おいておいて、)小説作品に神話的構図を蘇らそうとしている完全版での意図が読める、と説明できる。ガロウ・ランが『リーン』の主要キャラクターではないが、作品に神話を再導入しようとしているのはやはり後半の現代編を見越してのことだろう。
作中、日本軍人の糾弾すべきをなぜガロウ・ラン呼ばわりするのかは、旧版にはないことなので、今かんがえた。空想上の存在に置き換えることでその非難や断罪をぼかしているのか、という前回の消極的な思案より、地上の歴史も作品世界に取り込もうとしていると読んでいく方が、よい。
「ガロウ・ランの憑依」でもっと前、もっとも有名だったのはドレイク。ギイ・グッガを征伐した後のドレイクは人が変わったように軍事や覇権に妄執するようになったと言って、ガロウ・ランのギィの霊に取り憑かれたとコモン人に噂された。
わたしはそれより、現在にバイストン・ウェル物語を読み返してもいまだにガロウ・ランについて熱心に語れる場がないとぼやいていた。「文化」という目線より先に超えたことは昨夜書いた。やりたかったんだな。
「17 ガダバの前哨」(旧)続き
「12 人質の楯」(新)冒頭部
新旧で章の切れ目が異例な入れ替わり方。旧版の17章が終わるところまで。短いが、わたしのコンディションもよくないので今夜これだけにする。
味方に先んじて門内に突入した迫水は阿修羅になり、あっという間に敵兵を二人斬る。そこで、剣が折れてしまう。
完全版にだけ何故かそんな感慨が書き込まれる。この剣は前回レッツオ戦の最中に倒した敵から奪ったもので、中々の業物だとか何とか書いてあった気がするが、とにかくバイストン・ウェルの剣はよく折れるのと、時代小説でも合戦で刀の耐久度には諸説ありそうかな。
前回の交響曲第1番からのつづき。バイオリンやビオラ協奏曲なら別宮貞雄のそれもまたとても好きだけど、今その連想じゃなかったので今度にする。
「18 デダン・バランダの狂気」(旧)
「12 人質の楯」(新)つづき
狂気の場。「貴様、何者なんだっ!」と狼狽した将兵が叫ぶとき、旧版では、迫水は落下した少女を拳銃で射殺している。気違いかぁっ!?のところは、『真っ当か』『奴は獣だ』に出版コード上の訂正がされるが、そういう問題ではないしようのなさを感じる。
再び出現したリーンの翼には、
と、旧版では前回は書かれなかった四枚羽の詳細がここで初めて書かれる。
旧版では、確かに俺は地上人だに続き、『地上人の迫水真次郎、聖戦士の迫水真次郎である』とおっ被せて名乗るが、完全版では、『地上人の迫水真次郎である!』とだけに短縮されている。
それにデダンが、『嘘だっ! 現代に聖戦士が現われることなどない!』と叫ぶので、完全版では聖戦士とはとくに言っていないことに答える。リーンの翼を目の当たりに見ながら、見ても信じられないと言い張ることには違いない。
章おしまい、旧版2巻読了。今夜ここまで。
戦闘後、アマルガンと合流して会話中――「俺にとっては、自力でアマルガンに認められたかった。そいつは、ゲリィに対してもハロウ・ロイに対してもだ」に続き、
些細にみえるが、アマルガンの迫水理解度にプラスと、やはり旧版の声で喋っているような印象かテレパシーかの書き分けが加筆。
この会話の後がまた、
として、完全版では、続くアマルガンの一言の台詞で章が締められる。実は、ここの「男振り」という語は、旧版の章中に迫水の心の内の気概としてあり、迫水のロマンチシズムをくり返していた。良いところだが、完全版ではそこを短く省略し、章の末尾にあらためてアマルガンから迫水へ送る言葉としている。これも、新旧比較で読んでわかる、印象を強めるところだ。
英才教育
「19 海の声」(旧)
「13 ゲルドワの噂」(新)
この「概念的には」は完全版では「蓋然的には」に改められている。富野作品の蓋然的な言い方についてこれまでも思案がくり返したが、ここにきて、わたしの読むところではやはりここは「概念的」が意味として合ってる気がしてならない。しかも、あえて意図して書き直しているところだ。
家系の歴史や領地経営の何たるかについて、ガンビア氏なる旧臣の授業の内容が変わらなくても、本文でその評価を「概念的」「蓋然的」と言い替える区別はある。
ガンビアの講義は幼いリンレイの初学として、まず貴族としての考え方・心構えを伝授する座学として始まった。そのために家系学や経営学でする言葉の意味や、初歩の理論を説いたが、「では領地に行って実際にやってみましょう」というものではない。概論をやってくれた。
ここまではいいとして、それを蓋然的にというときには、説明のために「範型」や「定式」を多く示してくれたが、これはあくまで生徒にわかりやすくするために定式化してみせた、模式であるが、という条件付きのニュアンスが文に含む。もっとも、この後に続く文章では、ガンビアはそれにこだわらず、リンレイが現実的な生き方ができるようなトレーニングに腐心してくれた、と続く。
逃亡生活の十年のうち、表向き海賊のような暮らしをしながら、人目に触れないところでは、ガンビアはリンレイを女王たるべく英才教育した。躾けをした。
貴族的な規範が追加。富野作中の「規範」の語については以前に扱った。貴族としてのふるまいのコード、当たり前にすること。
以下、わたしの最近の雑想中より、
井荻麟詞では愛し合うことも「愛する作法 」と呼んだりもする。「英才教育」といえる。
老キャメロットの追放のいきさつについて語るイェヘィシアや、キャメロットは、語る中でメラディ家の先代(リンレイの父)のことを「先帝」と呼んでいるが、完全版では「先王」に訂正。帝の称は旧の感覚でもさすがに異様にみえる。
バイストン・ウェルにも東西南北の区別らしきものはあるが、地磁気のようにはっきりとした概念でなく、地域によるオーラの分布を指す曖昧な表現だと前の章にあった。一々わからないので方角の表現からはそれは省く方針のよう。
ガダバの発祥を「北方の地」と呼ぶことは一貫して変わらず。北=荒れた辺鄙な地、という意味ではないと思う。
異世界の南北談義についてはわたしは富野作品以前に別で話し込んだことがあった。磁針の指すところにあるものが磁極、または、世界の中心で、そのある方向のことを「北」と呼んでいるのだという……その話は省く。
恣意
旧19章おわり。今夜ここまで。
リンレイはその体内に恣意を発動させたのである。……というが、この章で三回ほど使われた「恣意」はほとんど「性欲」ともいう意味で、一般的に恣意の語について聞くことではない。意味はわかるが、やはり変な意味にきこえる。
手元でたぐったところ、
これらのあたりの「恣意」の使い方が挙げられる。こうなると「情念」とか「衝動」に近いのでは。ブレンでいうときの「エモーショナルなもの」というとき。ただ、恣意の語自体にはやはりその意味はなく、今思ったのは、先ほど上に書いた「規範」と対置するものとしておけば良さそうに思えた。
富野文中でも「恣意的に」というときには、それはごく一般的な意味で使われると思うから、「恣意」についても富野ファンなら大体見たことはあるはずだが、ここに割り込んでくる特殊ジャンル的な感じが説明のしにくいこと。
卑屈にしている暇はない
「20 再会」(旧)
「13 ゲルドワの噂」(新)つづき
『指揮官ともなれば、兵たちの信望を受け、それに応えてゆかなければならない』以下の説明が続く。ここだけを読むと当たり前のような話だが、このことは後の作品までくり返す、富野小説中の重要ポイントだったりする。『ガーゼィ』のクリスは最初は一見して卑屈なキャラクターかのようで、最近読み返したところでは結構がんばって自我を保っていてわたしは考え直した。
これに続いて完全版では、ビナー・ヘッゲモンの講義によるガダバの侵略地での圧制の異常さを語る。人殺しと収奪だけをしているといって、ガロウ・ランとはビナーはいっていないにもかかわらず、迫水の思いには、
完全版でのガロウ・ラン観については上記まとめ。戦前の横浜の開かれた雰囲気を知って育った迫水には、日本が神国化していく過程は今思えば『どう考えてもガロウ・ランの仕業に思えないではない』となる。
ここに、もっと確かなものを戦争目的に据えたい、という迫水の思いが加わって今の『卑屈にしている暇はない』になるから、ここの文章は旧版・完全版併せて読み返すだけの、あらためて考えてみる重層的な意味がある。
どう考えても……思えないではない
という言い方は読んでなんだか変な気持ちがするが、そこはいま気にしないでいよう。
メラッサ
メラッサという若者はアマルガン一統のグズロ以下の傭兵の一人で、旧版では一巻に「メラッサ・ムスターマ」と紹介されていた。完全版では「メラッサ・バサ」。そのあと、旧版二巻ではおおむね「ムスターマ」と呼ばれていてわたしは較べ読んでいたがそれほど気にしなかった。
二巻のドラバロの狂気の部屋に突入するまえに、
という、迫水が忘れているもう一人のほうが、完全版ではメラッサ。この20章でも若者達の列挙中にメラッサ省かれているのが、完全版で補ってある。読者にわからないところで地味に浮上しようとしている彼。
完全版のリンレイの髪は赤茶色、旧版では金髪、と前回(旧15/新10)書いていたが、完全版13のここでは金髪と書いてある。
リンレイの美しさに下馬することも忘れて見とれ、狼狽し、次に馬から飛び降りる迫水だが、新旧では印象が異なる。旧版では、しどろもどろな迫水を観察する彼女の目に「ムッとした」感情が差したと同時に、こんなまずい受け答えは危険だと気付いた瞬間、迫水の体が馬の背から跳び、リンレイの直前に落ちて片膝を付く。その挙動はまるでリンレイを襲うかのように見えるほど、迫水の激情の迸る行動だ。
完全版では、その一瞬の複雑な感情の行き交いが省略されて迫水は狼狽して下馬し、リンレイを襲うように見えたその挙動も「乱暴、粗雑」とだけある。
の台詞は、旧版では唇は震えているものの、逡巡を払って『なぜそう出来たのかは分からなかった』というほど、迫水の意思を押し出すもの。咄嗟のこの挙動のおかげで迫水はリンレイに負けなかったような文の印象。完全版では、
迫水はやはり、形なしだった、という書き替え。ここも完全版のテレパシー描写の補足の上で、リンレイの独擅場のようになっている。
この新旧は全く「読者の好みのちがい」のようになってしまうが、旧版の迫水は、この場でも格好いいんだよ。野獣みたい。「そう出来た」はポジティブだ。なんで、あえて格好悪く書き直すのか?のように睨んで読んでしまう。章の途中だが、今夜ここまで。
いま、エリアーデの『世界宗教史』からの横道で、シュメール学者サミュエル・クレーマーの自伝『シュメールの世界に生きて』を読み返している。このうちの六章「英雄たち」のところは、ここの『リーンの翼』の前回のはなし……ガダバの結縁のような話の、「英雄時代」を考えるときに面白い。
内容を紹介すると長くなるが、章は、ギルガメシュ叙事詩(ギルガメシュ物語)のアッシリア語版とシュメール語版の発見・研究史のあらましから、エンメルカル、ルガルバンダも加えてシュメールにおける「英雄時代」が浮かび上がってくる――というところ以降。古代インド・ヨーロッパ語族の……という語り出しではあるけど、ここにはたぶん必ずしも歴史学のセオリーではなく、クレーマー自身の"インスピレーションの得方"がスリリングなところがあって、また思い出せば再読しておく。
ギリシア、インド、ゲルマンの英雄時代とシュメールのそれとが、社会構造・宗教・叙事詩文学と挙げていくほど「驚くほど似ているように思われた」から発して、シュメール人は、もとメソポタミアに先住、先行する集団の高度な文明地に侵入してこれを征服した人々だっただろう――との推測をさせるものはその英雄詩にある、という大まかな筋書き。
先シュメール文明には2020年代の今もなお、学問の場でははっきりしていないだろうと思うけれど、この思考の飛躍が今読んでも面白いと思う。飛躍といって、空想を語っているわけではないが。紀元前三〇〇〇年頃から古代ギリシア・インド頃の時代間や、地上界と異世界の間について「英雄サーガの成り立ち、語られ方のパターンが似ている」と思う発想のところ。その発想自体はゴゾ・ドウにも似ている。
「21 徒党」(旧)
「13 ゲルドワの噂」(新)更に続き
書き出しから、やはりなんで書き改めているのかわからない。どっちにしても、山並みの峨々や巍峨という「鋭く尖った印象」ではなく、「広々として果てしなく荒涼としていること」、渺茫とか茫漠とかいう。草木の一つもない、というわけではなく、山裾には原生林が続いている。
ドラゴロール
強獣。小物はここまでもちらほらと登場していたが、この章で主役になる巨大な強獣「ドラゴロール」について。龍に似た強力で狂暴な生き物。ガロウ・ランの間にはドラゴロールの急所についての言い伝え等もあるが、あやふやで真偽は全く確かでない。
直径二、三メートルもあろうという胴(旧)
ふた抱えはあろう胴体(新)
同族らしき龍種には『オーラバトラー戦記』に登場するドラゴ・ブラーがいる。ドラゴ・ブラーは龍に似た蛇体に翼をもつ翼竜。ギィ・グッガの手勢に飼われているが、ガロウ・ランにしてもドラゴを飼い慣らした例はなくて、たしか作中が初めてとされていた。
ドラゴロールは後のシリーズ『ガーゼィの翼』にも再登場する。ガーゼィではドラゴロールは無限平野ガブジュジュの地に棲む「最近生まれた種」らしいといわれていて、生態が全く分かっていない。巨大な狂暴なだけに留まらず、自然の生物とは思えないようなある種の能力も備えている。ドラゴロールの上位種という「ゲッグ」も存在する。ゲッグには知恵さえ備える。
完全版1巻の402ページ「聞きなれた声のおかげて、」このたび再読で初めて完全版の誤植らしいものを見つける。意外。旧版のカドカワノベルズも校正はかなりまめで信頼できる。
恣意(つづき)
リンレイと会って女性観の激変・革新だった迫水の内的体験のおさらい……レッツオ以後の章を詳しく読み込んでいればくり返しになるが、女性観の話をちょっと外れて、この中に、前回挙げた「恣意」の語の使い方の、別の例がある。その復習をしてみる。
いかにもわかりにくい。完全版では表現から除かれているくらいなので、説明のためにとはいえ、挙げるには悪い例といえる。
生きているかぎり、個人のなかの欲求とか欲望というものはある。この文中では、「自分」と書いてあるところは新旧に共通してそれかもしれない。「自由」という語は、完全版では近い段落に「自由恋愛などは…」とも、かすかにあるが、自由から隔離されていることが許されていた、といえば、現代の読者にはなおわかりやすいだろうか。
後のブレンパワードくらい経ているので「エモーショナルなもの」というと富野文脈では分かりやすいが……エモーションを恣 にするは、単語としてはあたりまえなので、とくに作劇以外の話には通じない。
「健やかさ」というのとは違う。その発露を塞がれると鬱積するのはたしかだが、「恣意」と言う中に健康とか健全という価値評価は含んでいない。
ガロウ・ラン的な恣意の放出はとくに、邪悪であると言っていきたい。放出……発動かな。もうちょっとトミノ界隈的なボキャブラリーの良いところを捜したいね。
もう一回、ロマンチシズムを今挙げてみよう。世の中でいう普通の言い方をやめてわたしなりにいえば、ロマンとは「自分は何のために生きるかについて思うとき」と前回いった。それはわたしの言い方だ。
上の迫水についても、完全版では「恣意」を省いた代わりに、文章には「生き方」を書き込んでいるだろう。生き方を求めようとすることに食いついていく読者には、アレ…のような他人事のようには、簡単には放さないと思う。
章おわり。旧21/新13の章の切れ目は同じ。
また「恣意」だが、「恣意的」という使い方をされるときには富野文もあまり気にしなくていい……ようなことを上で一度は書いたが、ここの「恣意的」の用法も直前と同じように、やはり怪しい。
自然物でない、人為あるものの意図、少なくともその志向を感じるというようだ。志向性と言ってくれたほうがわたしは分かるかもしれない。