富野由悠季監督作品・著書の周回ログ。現在は主に小説作品の再読整理中。
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- 1995-96 王の心 1■ / 2■ / 3■
- 1997 密会〜アムロとララァ
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- 1983-86 リーンの翼 1■ / 2■ / 3 / 4 / 5 / 6 ←今ここ
- 2010 リーンの翼(完全版) 1 / 2 / 3 / 4
これまた、『ガーゼィの翼』とは直接関係のわかられにくい連想でべつの本を探す。わたしはこのガーゼィを眺めててふと、
の二要素だけで『ウィザードリィだ』と思い当たった。ウィズで今わたしの思い出すのはゲームやそのノベライズ群よりも『組曲ウィザードリィ』(羽田健太郎)、そのうち寺嶋民哉編曲の#5,6であり、寺嶋民哉作品でいちばんおもしろいアルバムがこのアニメ映画のサントラだから。この本は一日で読んだ。作品は今なにか関係があったかというと、「少年が空飛ぶ」くらい。
ブクログのユーザー本棚の整理タグに色々設定できるのだが、「空を飛ぶ」(飛翔)の要素は、ファンタジー小説ではどうしてもストーリーのクライマックスの見せ場になり、個人のそんなところなど誰も見ないとしてもタグ振ってるだけでネタバレに近くなる。積極的に活用すれば便利だが、しにくい。
「竜」(ドラゴン)など設けているけど、ファンタジー小説にドラゴンが出てくるのは物語上の重要度に無関係に当り前だ。むしろドラゴ・ブラーが何巻に出てくるかを識別してる。猫だと多すぎて収拾がつかない。
心で飛ぶこと
上のアニメ映画(2000)に対して、原作破壊といえばその部分が目立ってわたしはやだなと思う一方、アニメとしてそんなに悪くも言いたくない、わたしはもともとCWニコルのファンでさえなく、劇伴音楽の趣味から来てるという。
原作小説(1983)には、そもそも「風の民」という設定がない。少年が超能力を現したり空を飛べるのは、生まれつき伝説の王族だとか、その遺伝子を受け継いでいるからではなく、少年に人には普通見えないものが見え、聴こえるから。それは何かのきっかけがあれば本当はきっと誰にもできる。現代人に埋もれた能力……心の力、魂で飛ぶ。
83年頃のファンタジー界にはこうした魔法観、現代文明が眠らせた力、心の力という考え方が浸透していたろうし、ニューウェーブなような流行とも合う。今隣で読んでるタニス・リーなんかはその代表ともいえ、不思議を現実にするのは信じて疑わない心、型にはまった呪文や儀式はいらない、という態度が強い。
富野由悠季だって時代の子だが、『リーンの翼』では迫水がもらった古い革靴はたまたまそこにあった品で、本当にその靴が翼の顕現に要るのか実のところ曖昧だ。本当は、「私は飛べる」と思いきれば誰でも飛べたのかもしれないが、「翼の靴なんかなくても飛べる」とまでは、行きそうで行かないようなところだった。
『ガーゼィの翼』には聖器として翼の靴はない。クリスがいればクリスの足に生える。クリスの絶体絶命のピンチで、その際必ずしもクリスの「信念」が生やしているわけでもなかったと思うが、それはこれから読み直してみよう。今日は上のアニメのサントラを聴く。
心の世界の自然界
異世界に召喚された1995年の現代青年クリスは、過酷な環境で事あるごとに『コンピュータゲームとは違うのである』と著者から釘を刺される。クリス本人もつくづくそう思うのだけど、『現実はゲームやアニメと違うんだ』と耳にタコほど聞かされて育っているであろう当時の青少年の通念とはまた、裏腹に、バイストン・ウェルは案外コンピュータゲーム的な世界である。
アシガバ族との最初の交戦では、コンピュータゲームほどひっきりなしに敵が出てきて戦うような現実はない、と思った。湿地帯では、人を食らうほどの大蜘蛛や恐獣が自然に棲息するには背景に広大な縄張りと生物相が必要だ、いくら恐ろしい怪物でも、巨大なほど一地域に棲息数は許容できず、倒しても倒しても無限に襲ってくるはずはない……とは思うのだけど、異世界には異世界のルールがあってそんな怪物が無限湧きするかもしれないとも思う。
バイストン・ウェルの自然は、地上界の常識的な地質学ではありえない地形に溶岩や石油が湧き出したり、急流や、天を衝く巨樹の密林が唐突に点在する。バイストン・ウェルは地上人の思念と想像力のつくる世界だからで、言ってしまえば何でもありで、もっと言えば小説の主役の迫水やクリスが行くところにそのつどアスレチックのステージとして奇怪な地形と異形の獣が待ち受けている。むしろゲームそのものともいえる。
ジョクは、おおむねオーラマシンで上空を飛び過ぎてしまうのでバイストン・ウェルの行き当たりばったりな自然に比較的悩まされなかった。作品は違うがこの印象は『王の心』でもう一度思い出してみると面白いかもしれない。
バイストン・ウェルの動植物は、地上界の動物種・植物種とよく似ているように見えても必ずしも同じでない、現地のコモン人の言葉では現地固有の名前で呼んでいる、葦や熊笹や竹や、魚のニシンとかタラと言っているわけではないが、地上人のクリスには「だいたいそれに似たもの」としてテレパシーで聞きとったり想像する。
べつにそんなこと一々に断らなくてもいいとも思う。ファンタジーを創作するときに、物語の人物のまわりの自然の気象も植生も人工の文物や歴史も何もかも、必ずしも「世界」を丸ごと新規に創造しなくてはならないわけではないだろう。近世のメルヒェンでも「架空のキリスト教国」と思っていれば具体的にドイツとかフランスと言わなくても、お城が建っている周りの森の木々はわれわれも知るブナやカシやナラで結構だ。
その話は今しない……。それは態度であって、上の、氷川さんの本では「世界観主義」のような言い方もしていた。
海外ファンタジーを読んでいるとき、先日も文中でアオギリとかサンザシと言われているのは気にしないとして、ヒマラヤスギ(cedar)という訳語が出てきて、――この世界にヒマラヤはなくてもヒマラヤスギとはいうか――それも読者むけに便宜的に翻訳されたのか――英語の原文にヒマラヤとは言ってないけど、語源を言い出せば松も杉も日本語だしなと思った。よくあること。
バイストン・ウェルの風物は地上人の心がつくりだすものなので、もともと人為的なこと、それと進化や歴史学の考え方と代わるもののように「伝承」がある。ここで地層や化石を掘り返せば混乱を極めるのかもしれない……各話の世界の案内人になるドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる。
あと、コモン界の馬には角が生えていることは必ず言及される。この角が何かの役に立ったことはないと思う。それを見ると地上人は世界の違いを再認識させられ、身の内に慄く。
ユニコーンが出てくるファンタジーではユニコーンはよく角を武器(凶器)にして戦う。実在のユニコーンの生態はわからない、その決まりはないが、野生のシカやサイがするほどのことをユニコーンが躊躇わなくてもいいだろう。
現実の歴史では軍馬に装甲(鎧兜)を施されたこともあった。時代・地域によるが、わたしはフルアーマー化された馬の絵図をみると「勇ましい」よりも、微かにかわいそうな気持ちがする。
このまえ『The Birthgrave』の作中、主人公の女性が馴らした悍馬は面甲に角も装備し、戦闘では彼女のロングナイフとともに馬も共闘して噛みつく、蹄で蹴る、踏み潰すに加えてこの角で突いて斬り裂くと大暴れしたが、その馬は狂暴さのあまりすぐに戦死してしまった。
(馬の角まで熱心に理由付けすると、それを使って馬も戦わなければならない劇中の道具になるし、かわいそうにもそのせいで早く死んでしまう、という空想のお話づくりのことだ)
『ガーゼィの翼』2読了。先の、現代剣道と実戦のはなしはこの2巻におおざっぱにあった。クリスは弘道館の紹介記事で知ったとか。わたしは剣客小説が好きなわけでも、過去の剣豪や銘刀のリストを読み漁る趣味があったわけでもないがまあなんとなくそのような話は知ってる。
メトメウス族の武者たちや若者たちの名前は最初にカタカナでまとめて出して、キャラ立ては話が進みながら追々考えられていくよう、これはバイストン・ウェル物語いつもの。クロス・レットくらいで准主役くらいに育つ。ガーゼィでは、メトメウス族は武者(大人層、エウフリオの仲間)と若者(リーリンス以下のティーンエイジャー)の格差があってこれは読むうちにわかる。若者の一人「カブジュ」は2巻の途中から文中で「ガブジュ」と呼ばれるようになって後にはそれで確定するみたい。
書籍データの登録タグに「竜」と設けてると上でいったがドラゴロールは竜とかドラゴンにカウントするかな……。ドラゴ・ブラーは全くのドラゴンだったけど、恐獣はドラゴンなのかとは言いかねるし、このシリーズの恐獣の中ではまだまだ小物程度だったと思うが。
ただ、こういうキャラ属性みたいな恣意的な分類に含むか含まないは、まずは収集を目的に寛容に取ること。収集したデータを選別・整理するのはあとでもできるが、一度見てもそのとき迷ってスルーすると後からはなかなか思い出せない。だから迷うものはまず採取しておく、は原則。
クリスの元同級生の村瀬怜子さんが結婚・出産後に霊媒をするようになって、それが商売になったくだりは『Vガンダム』でのマリアとおなじだ。もちろん怜子さんとマリアの人柄は全然違うが、今読むとこれらはどう考えればいいのかな。新興……というか、民間信仰の巫女さんのようなものに、何らか具体的に取材したものではあるらしい。
わたしは、これがまた知らないだけで、いま多分世間一般の人がそうだろうほどには偏見や蔑視はない。ただ今その興味が主なわけではないのだった。『ガーゼィ』のここでは、巫女の求心力とか女性原理だとかの話はない。
富野作品の関連なら、霊感体質の女の子なら「中臣さん」に期待する流れじゃないか?……それは以前読んだときにも思ったと思う。クリスの彼女の中臣留美子さんは、三巻でまだ出てきていないので待ってみようか。
クロノクルが小銭稼ぎにビデオに録って売ろうと考えるあたりなんか、妙にリアルじゃないか。わたしは普段その類の世間話か、下世話が好きでなかったので。
ザギゾア
ザギニス・ゾア! 通称ザギゾア。まず名前が面白い。三巻でクリスと初の邂逅となる、アシガバ軍の若き俊英。わかりやすく「ライバル」として設定されてる強敵……だが。
傲慢で野心家の青年という一群の系列があって、それは「シャアのイメージ」とはもともと違う特殊な興味だという話をしてて、『Vガンダム』のクロノクルまで下るともうちょっと違う、とも。この通読だとわたしはシース・シマーが一番いい劇の役回りだと思ったのだった。ザギゾアはこの最初面白いんだけど、右往左往する間に普通の悪党の定型に逆戻りしてしまうような……でも、今回わたしの興味も新たになったので、ザギゾア楽しみに読んでいこう。『ザギゾアから留美子へ』という題もあるしね。
「俊英」という言葉にはなんのこだわりがあるのか、くり返し使われる。面白いのは、『オーラバトラー戦記』あたりの本の著者紹介には著者・富野由悠季のことも「アニメ界の俊英」と紹介されてる。この後に続くのはやはり、「カロッダの俊英」マラーク。阿呆の子の意味。
クロノクル追記
クロノクルについては、今回読み直したのでは少年時代のヤクザ気分と、その上に薄く被っている現在の実直さ……のほうだった。クロノクルはむしろ「若者らしい野心に乏しいこと」が弱みのようで、傲慢さよりは端々で気の良い普通さが出る。
ただし、クロノクルがベスパ士官として実直な仕事をするようになったといって性根が誠実な人かというと、本人が誠実に振る舞おうとしても不自然すぎる地位のせいで、客観的には誠実な行為の示し方になってない、カテジナにも「これはお妾さん扱い」と見透かされていた。そういう弱みは読者によっては駄目が入るかもしれないが、カテジナはでもその彼が嫌いではないみたいな、コミカルな描かれ方だ、と。
そもそも――またシオ文学観の話だが――愛情はロマンチックな情熱だけではない、男女の打算でくっついたり、お互いに傷の舐めあいでやってる自覚でいながら切れずにダラダラ続けてしまうこともある。クロカテは思いっきり自己満足と慰め合いでしかないが、「愛は育てるもの」と思えば、どんな不自然な結びつきにも未来にそう思える芽はある。だからコミカルに(可愛らしく)見えるのかもしれない。
カテジナ目線でクロノクルがどういう青年に見えているかは想像できるけど、「女王の弟」(リアル王子様)という要素はそこに入ってない。クロノクルは感心なことに自分で言ってないし、後では知ったろうがもともとその打算はない…。
一方でカテジナが知ってるクロノクルは、それも現在の彼の社会的なポーズで、彼の少年時代までは知らない。白いガンダムの地球以来の経緯が結びついて一挙に憎悪が噴出してるクロノクルのスラム街メンタルはカテジナにはわかってない。クロノクルの生い立ちの要素はやはり小説版かぎりで、アニメに反映して語れず惜しい。
――どいつもこいつも寄ってたかって俺のことを踏みつけにしやがる。それだけがこの街の全てだ
そういう思いがずっと染み付いてるだろうのがウーイッグのお嬢さんに埋められるかな……お嬢さんはお嬢さんだろう。
シャアブル
ザギニス・ゾア=ザギゾアという名前の略し方は独特で、バイストン・ウェルのコモン人の名前が長い人物一般にそういう略称がされるわけでもなく、それでいてアシガバにもメトメウスにもニックネームとして違和感なく通用しており、誰もあえてそのことに触れない。普通に「ザギニス」と呼んでそんなに長いわけでもない。愛称として本人が積極的にその呼びを広めようとしているクリム・ニック(クリムトン・ニッキーニ本名)に近いかもしれない。
シャア・アズナブルとシャリア・ブルが名前が似ててまぎらわしいとは古今だれしも思ったはずで、きっと一年戦争中の兵卒には、
『シャアブルなあ……有能にはちがいないが、どうも純朴すぎて世間で他人を食ってでもグイグイ行こうという押しに欠ける。人格的には良い人なんだが本人が板挟みになってるのが見てて居たたまれないんだよな。ロマンチストなとこは絶対良いとこなんであれで野心か女性関係のスキャンダルでもあれば……えっ赤い彗星?――ごめん俺ふつうに勘違いしてしゃべってたわ。ところで、誰それ』
のような作為的に取り違えて語るテンプレだっただろうとは疑いない。
ほかに、「ゾア」というのがゾア家の家名や氏族名ともかぎらず、彼固有の称号、冠称として与えられたもので「俊英ザギニス」のような意味があるのかもしれない。そんなことは作中でさっぱり追われないから、不思議のまま。
「戦闘集団」の話は、古代には軍の進む後におびただしい女子供、民間人がついて移動することはよくあった。軍団の駐屯場所で商売する人々の話は『オーラバトラー戦記』に一章割かれてる。
進軍したらその先に入植する予定でついてくる群集なら家族と全財産を担いでいるし、初期の十字軍なんかは浮浪者の群れに見えたとか。『ガーゼィ』のメトメウスも一民族のエクソダスなので、荷馬車の列とそれを守る戦士(武者)が混じってひしめく。足手まといのこの有り様ではアシガバ軍に襲撃されたらひとたまりもないぞ……、とクリスは集団分けを提案しようとするが。
異世界で戦争するとき、こっちで知ってる近代兵器や戦術を持ち込むだけでなく、近代的な「軍編成」を試みようとするのもこのジャンルでたぶん、そう珍しくない発想だろう。そこでノベルの作品名に詳しくないのがわたしは粗だが。『ガーゼィの翼』の微妙に独特に思うところは、その近代軍思想、そのものではなく、ケッタ・ケラスやフィロクレースにその説得をしようとしてクリスに説明できる知識はないこと、みたいだ。プロの自衛官ではないしミリタリーマニアでもない。一般人のゲーム知識で、なんとなく常識として知っている。
機動力とかの「概念の有無」を、異世界ジャンルなら勝敗の根拠にしたいんだろうとは思う。ここの興味はそれではなくて、「なぜ有利なのか」と率直に訊き返されるとクリスは答えに詰まってしまう、このキャラが今読み返すとわたしは案外おもしろい。説教臭くなって面白くないところもある。
『よくわからないのになぜ知っているのか』と、メトメウスの人々からすれば不思議だと思うんだよな。1巻あたりの頃は「聖戦士だからでありましょう」みたいに簡単に済んでたかもしれないところか。でもそのテーマを、面白く描くのはやはり難しそうではある。
ゲーム浸りの現代の軟弱な若者にはシビアな現実は無理!……とは既に言ってない。「スポーツ剣道の実戦化」「にわか知識の実用化」までは、移行プロセスのいくばくかを経れば可能である、と説く。ただし、ここまでの章でまだ具体化していない「戦争と殺人」の問題に答えていない。
こうみるとクレバーな構成のようでもある。それが、Vガンダムやアベニールと時期的に連続してみえるのが言い尽くせなくてもどかしいところ。
ウッソは戦闘で人を殺して苦しまないのか……または、なぜか。サイコミュの場で殺人すると深刻な心のダメージを負うことは語られている。それはどういう意味なのか。
人の死を直に共感するダメージで人は戦意喪失するし、裏切って敵に回ったりする、そんなPTSD製造機みたいなサイコミュがろくな兵器になりそうにないが、そういう機能があることも、そのつど問題に付されずに送られるのはサイコ・マシーンが毎回破壊したり封印されて、体験もフィードバックされないからのようだ。神経細胞にニュートリノ的な直撃云々は今それじゃない。
そこのこれに、『大和男の盛りをみせよ』だ……? 日本武尊は何を言いたいのかと考えあぐねたところ。3巻の、示現流などの話は充実してて面白い。
『ガーゼィの翼』3巻読了。
わたしは既読だから全体の筋は知っていて上のような話(戦争と殺人)だが、前にも書いたように敵にとどめを刺す儀式はバイストン・ウェル物語では恒例のような「通過儀礼」ではある。
それでなくても、慈悲の一撃(クー・ド・グラース)とかは日本の武士の「介錯」ともまたちょっと違う文脈をもってて、海外ファンタジー作家も取り上げることはしばしばある。クロスボーンのときの貴族精神の話とは親和しやすいとは思うんだ。それで対人殺傷の話をするんだけど、今読み返すとどんな感想かなと思ってた。
日本武尊のことは、地氣(気脈)のはなしだから白山のシンボルであろうは、わたしは今わからなくはない。それと、その話の端で白鳥伝説の「神話のエネルギー」なる言葉がまた、ポッと唐突に言われたけど、後先ない出任せでなければそれもちょっと興味のある言葉だ。面白いぞガーゼィ……。
不滅の英雄
英雄である日本武尊が死したときにその御霊は白鳥と化して飛び去った、という伝説である。多くの人がそれを見たと伝えられている。その目撃者が誰であったかはついぞ分からない。まことに実在した人かも知るまい。日本の建国神話の一端。
その物語にはなにものかにはたらきかけていずれかを志向するエネルギーがある。なにをさせるのかというと、白鳥の飛ぶ映像イメージは、音として聞こえれば『大和男の盛りを見せよ――』とも聞くだろう。見せよというから命令だ。
上でも一回掠めたけど、ガンダムリスナーだったら三枝成彰「ヤマトタケル」は聴かれてほしい。CDではオラトリオ。オラトリオ版とオペラ版のYoutubeに動画があるけど、ラストの歌詞はそれぞれに省略か変更になっているみたいだ。バージョン違いがある。
この不滅論が好きだとこの春も書いた、この詞はCDで聴ける。現代語の平易な台本と、このロジック(レトリック)はたぶんなかにし礼。時代を貫いて変わらない無名の、無数の庶民の感情は哀しみである。その哀しみこそ民族の生命である。英雄の物語は哀しみに彩られている。だから英雄は不滅である。
符牒や暗号が互いに通じないのは男女に数えない。性的な含みも必須でない、人にわからなければ人でもない。そこにある共謀とか共犯関係にだけ、ほとんど感じないくらいでいいから、眼前の白いものを消し去って漂うそこはかとない賢さも呟く。ラ……とか。
「共犯関係」といえばこのまえセシリーとシーブックの「悪友関係」と言ったのも思い出す。その暗号がわからない他人に割って入られると(親でも)「機械ごとき」で罵るだろうと。『密会』を読むときまた思い出してもいいかもだな。
やはり「ベン・ハー」か。このガーゼィの前に吹奏楽の「出エジプト記」を引いたのはこの連想もあったと思う。ユダヤ人のことではなくて、天野正道さんが「架空の映画音楽」というときに「ベン・ハーみたいな」というから。
ガーゼィ小説中に書いてあるから印象が残っていたんだろうけど、書いてあること自体は忘れていた。ここは戦車戦の話しで、わたしは最近しょっちゅう触れているバースグレイブにもそのオマージュみたいな大スペクタクルの戦車試合があるんで、これもまた何か資源を探してみようかな。映画みればいいが、サウンドトラック盤かその再演(音楽)がほしい。
素直に天野正道を聴けばいいんじゃない? ガーゼィは日本の小説で、日本のOVAだ。鷺巣詩郎=天野正道というイメージがあるくせに鷺巣詩郎は避けるというひねた通り方をするからだ。ここ富野由悠季の小説通読なんだけどな。
先週の寺嶋民哉「風を見た少年」の音楽は、「音楽も映画も原作小説も、どれもそれぞれに良さだけど手放しには何とも言いがたい」ような曰くが、わたしはバイストン・ウェル感に近いものをおぼえる。時期的に比較的近いからガーゼィを連想する。飛ぶし。
90年代にアニメ映像化されなかったか、されても飛ばなかった富野小説作品を読むとその架空のサントラをあれこれ想像するうち、「当時活躍中で、富野監督とは組まなかったアニメ作曲家」のように空想する節もあるわけで、去年中はちょうど通しリスニングをしていたから和田薫音楽なども考えていた。それはオーラバトラー戦記(1993)頃に当てて当時サイレントメビウスだったか……。
この「風を見た少年」を聴き返しているとやはり宇宙戦艦ヤマトには聴こえる気も、するので、今夜はその交響曲を聴いてみる。わたしの手元に幾つかあるがこれは「交響曲ヤマト2009」。いま氷川竜介さんの本を開いているのでそのおさらいも。ヤマトそのものになってしまうとバイストンやウェルな気はもはや微塵もしないが、ここがもともと30年も前のラノベを通読しているような収穫に乏しいことなんだからそのつど何らかの連想で関心は広げるべき。それとCWニコル『勇魚』をあらためて読書予定に積んでおいた。
古典作品は作品鑑賞の態度も永年を経て醸成・洗練されており、先日でもベックメッサーみたいな人をたまたま興味をもって取り上げてみたいと思えば、調べればしっかり研究されていて「ベックメッサーは重要な役」だと当り前に評価されているのがわかる。それだけでもホッとする。
わたしにはそういう気持ちがあるので、富野作品ではとくに今回シオ・フェアチャイルドなんかをピックアップしていた。
ナディアについては、ナディアの心情は「お父様っ!」だけでいい。劇としてはその一点だし、そのうえその他をあげつらうのはかわいそうだ。
絶対にそれは言うまいと四十のうち少なくとも十六年を葛藤しているような人の気持ちが、想像されないものか。若くてはそれも仕方ないが、中年以上でそれなら人の心よりも、上の意味で作品鑑賞の程度を疑う。ナディアに対して酷い劇なんだ。
あとこの話のたびに毎度思い出すメモは、『F91』は親子殺しに迫っている。『F91』が1990年代に「家族」をテーマにしていることは知らない人はいないかのように言うが、意味は考えられているようでない。
簡単にいって、親が子、子が親を忌み嫌い、殺し合うように勧めれば「機械による殺戮」以上に人類の抹殺は捗る。親が偉いか、子が偉いかではなく、作品読後にもその印象を語っているなら自分の理解を疑えるといい。これはアーマゲドン人間のとき触れた。
あなた自身が知らずに人類抹殺のための端末、バグになっている。オルファンの抗体になりきってるみたいな言い方だ。たしかに、人類を黴菌扱いに駆除するには家族を破壊するのが早い。今頃にそういう流れに便乗するのは、おぞましいもの。
富野由悠季が三枝成彰の「ヤマトタケル」(1989)に触発されたかは、わたしはわからないが、当時「知らない」と考えるのはあんまりだろう。富野監督の感想は不明として、客観的にみれば同じヤマトタケルを扱っても『ガーゼィの翼』は負けてるので、その想像するのは楽しい。
上では「民族」のところを強調しておいた。あらかじめこれを書くわたし自身、民族や日本人というテーマに深く傾倒するものでもない。ほかには、アベニールの作中の笛吹の気持ちみたいなものもわかる。その「ロジックが好き」というわけを、『ガーゼィ』のことは閉じておいて今もう少し触れたい。
三枝成彰やなかにし礼はアナクロニズムではなくて、1990年頃に70年前くらいのロマン的な熱さを現代音楽のアプローチで展開しつつ、現代日本の「新・古典」「ネオ・神話」のライブイベントにしていた。攻めた音楽だが、文字は現代の日本人に向けてわかりやすいメッセージを歌っている。
日本武尊のオペラでは近い頃に團伊玖磨の「建 TAKERU」(1997)もある。もくろみは似ているがテキストは平易とはいいがたい。
人々の心が呼ぶかぎり、ヤマトタケルは何度でも帰ってくる。民衆(われら、民族)は不滅だから英雄は不滅、英雄=民族のシンボル。「民族は永遠である」と説くか、その民族を永遠ならしめんとする(みんなで永遠にしていこう)のは民族主義運動のスローガン。その主張するところの論理。
再来する巨像
たとえば∀だと、作品のキャッチを上のようにいうとき、では「ガンダムを呼ぶと人は癒やされる」とはいうのか、いわないのか、とこの前おもった。いま、人は癒やされる、人は呼ぶ、の癒やしについては先にして、「人はガンダムを呼ぶ」ガンダム伝説、英雄伝説の続き。
「ガンダムは人々の心の願い、呼びかけにより、時代の要請に応えて帰ってくる不滅の巨像」のように説けば、時を超えてなぜガンダムがよみがえるのかは、人類が永遠だからだ。過激派 だろう。それは現実ではないが、全ての人をガンダムファンにしようとする宣言に、今してもわるいことはない。わたしはそういう理屈には微笑ましくて、なごむ。人類が未来に永遠かは、これから永遠にすればいいこと。
「ガンダムがなければ人類は滅びる」のような主張を説けば今現在は
「同族たる人間を殺すことに長けたのが現代の人間」とするのがアーマゲドン人間観なら、「ガンダムを呼ぶものが人である」「ガンダムで癒やされるのが人間」と説くのはガンダミズム人間観としておく。
再生しない一般人/一度だけ復活する救世主
宗教学概論のつづきで手元で今夜開いている章からだが、ここはたまたま月と不死のシンボリズムについてと、月と加入儀礼の話なのだけど事例だけを又引してみる。
月からのことづけ(伝言)を帯びてウサギやトカゲが人間のもとに走る。
ここの文脈は、『この神話は、人間の死という具体的な事実と、加入儀礼、その両方を根拠づけるものである。月相は、復活信仰の好例を提供してくれる――』ということなのだが、それはキリスト教護教諭においてさえそうであるといい、
こういう恣意的な引用は本当はあまりよくない。ただ、道具としての言葉の使い方という富野通読の関心の続きで、ここは歴史観ではないが、たとえば不滅観または英雄観についてのシンボル操作も上のような民族英雄だけではないと言うために言っておく。このストーリーでは、民族の不滅性ではなく月の不死性と人の再生を関連づける。話によっては、月は再生するが人は再生しないという語りでもある。何度でもではなく一回だけと但しをつけることもある。
そういえば、「白鳥伝説といえばローエングリンは絶対」と思ったのに日本武尊に集中して、このところワーグナー放りっぱなしだった。今、それ用に新たにテキスト作らないとわたしは聴かないがそれにちょっと手間取っていた。ここまで読んで、ガーゼィにローエングリンみは乏しいと思うから放ってもいいけど……それも続き。
そして先日来わずかな動揺だけでもう富野通読の気力がひしがれてしまっている。あらゆる方面から興味をかき立て続けなければ、いまや瞬時にわたしの火が消えるのと、見回して何処にも接点の見当たらないのと。
アイルランドの者
去年の前半はダンセイニとフォオナ・マクラウドの再読があってアイルランダー性はわりと濃かったな。井村君江先生の文なんかを読むとわたしは最近そんなに気持ちが沿わない。
「風を見た少年」のところまでの経緯は前回。今ここ、富野作品や『ガーゼィの翼』と関係は多少の連想以外、ほとんどない。
エリアーデ面白いけど状況ちょっと挿んでおくと、これは1949年の『概論』を読んでる。各論ではない。この世にはなんでもまず各論を語りたい人達はまずいる。
エリアーデの著作集でも古いほうで、わたしはもと通読はしているけど今は再読、このあと20年後くらいの『世界宗教史』なども積んでる。手元で整理できるデータをまとめていて、小説までいければいい。
エリアーデ本人の評価も大方知っているが、1970年代からさらに20年後くらいの世評というのがって、さらにそれから2010年くらいにわたしの中で「再評価」したい気持ちになっていて、今頃また再読している。ル・グインの話題に上がってきたので一度フレイザーまで戻りたいけど、ワーグナーを再周しているならまずニーチェ頃まで遡らないと不足な気分ないま。
引例が恣意的だ我田引水だというのは宗教についてにかぎらず「比較」なんとかと冠するときには大概つきまとう。一方で、コンピュータゲームやネットカルチャーの場で日々生成される膨大な妄想のキャラクターやストーリーをかき分けて考えるときに昔のフレイザーの方法などに目を開かされたことがあって、わたしは態度を改めている。
『勇魚』上下巻読了。これは良いもの。連作の続き『盟約』上下も既に積んでいるが、それも追うとして『ガーゼィの翼』のつづきに戻ろうかな。飽き飽きしているならほかに連想の続きをまた広げてもいいが……。
また別に、このあと『王の心』の前に幾つかインドの説話集の再読しておきたいと思ってる、『鸚鵡七十話』とか『屍鬼二十五話』とか『十王子物語』、カター・サリット・サーガラとか。『王の心』がそもそもインドだかペルシアだかそんな特定のイメージモチーフでないと思うけどわたしが思い出したい。中国かもしれない。
ニュータイプのための言葉
ニュータイプの交感現象の認知度
富野由悠季作品というかガンダムでは、ニュータイプは非常にめずらしき人、ということになっているので、その精神交感については、作中、当事者以外にほとんど知られていない。その超常的な事柄に接して人々がとる態度も、多少の時代を経ても進展しない。
SFやFTのジャンル一般には「テレパス能力の乱用が法律で禁じられている」ような設定はよくある。これはさっきル・グインの作品での古典的な心話事情から取っ掛かりを始めた。テレパスやプレコグの存在が認知されて久しい場合の。
宇宙世紀の状況では「ニュータイプは伝説」「サイコミュは秘密兵器」が通例で、その実在・実態が表沙汰にされにくい。ニュータイプのテレパス的振る舞いが社会問題になるほど一般に認知されたことはない。稀に、ぶしつけな精神被害に直撃して「土足で…!」と激怒する人がいても、その訴えが広く共有されて今後に改善はなされない。
一年戦争から数十年間を取り上げるのが多くの作品だが、Gレコほど下っても無理解事情は変わっていない。
ニュータイプのための言葉
「ニュータイプの言葉遣い」については、ここでは重要なテーマとして扱っているところ。言葉は道具だ、との。これも、富野作品やガンダムに訊ねなければ、――テレパスでも精神感応をすると疲れるので普段やらない、心話で直接対話すると無雑音で理想的に通じるかといえば、心と心の交感というのはむしろ雑音や雑念の渦だ、何も読めないし通じない、言葉で喋ったほうがまし――と判明した後の、開化されてしまった態度のテレパスも登場する。
戦闘で人の死を共感するニュータイプのダメージについては、前にも触れた。また一方、ニュータイプが対話の通信機になれればいいのに、そんなときにかぎって役に立たないので
『人がそんなに便利になれるわけない…』
『人殺ししかできない』
と自分に言い聞かせて落ち込む別種のトラウマ事情も、やはり改善しない。できてもやらないよ、と開き直ってしまえるほど、ニュータイプが言語経験を積まない。
ニュータイプならできるでしょ、と言われて『でも感じないんだ!』と惑わせるより、ニュータイプの真の才能に目を開くには別の言葉を求めることもある。
諸々の偏見
ニュータイプ向けの諸々のケアの不足が事実でも、そこに「ニュータイプは個人的には不幸なんだよな」のような見る目がまかり通るのは現代日本の水準から見ても野蛮なのだが、そうなってる。宇宙で戦争が続いているから劣悪環境なのだとも思える。
ニュータイプは選ばれた人という羨望・嫉視からくる反感とはべつに、「ニュータイプは弱者」と見る向きも現在は強いことは言われないとならない。
ニュータイプへの願望期待の重さと裏に、人の先駆けであろうニュータイプがたびたび人の理解を求めるというのも、冷笑まじりの厳しい目線を生む。ことに強化人間に対しては遠慮ない憐憫が浴びせられている。
ニュータイプは富野作品やガンダムの主題では必ずしもない。機動戦士や聖戦士の「戦士たること」を省いて、温和な人類の未来像だけを語るのはむしろ亜流といっていい。ここでは、ニュータイプのための戦士観を求めるのがよい。
現在、ガーゼィ4巻なかば。一刀で首を断つのはクラバの礼儀だ、などと悟ることかな。それは冗談として。
魔法少女でも戦死者が出ることに湧いたのはもう昔だけど、クラバで人は死ぬことに今も胸に刺さるものはある。胸に刺さるものはあるが、視聴者は耐えられる。それは時代環境なのかは今わたしはあまり知らないので、はかり知れん。視聴者が視聴に耐えるならそこにさらに表現できることがあるという物の言い方は、こないだの氷川本で読んでいた。
ガーゼィの翼4読了。なんだかわたしの記憶ほどその印象のところが見当たらないが、
――こういうところかな。両世界の二人のクリスが交信している。本当は、ここはストーリー中で切実な場面なのだけど、このすぐ前には、心身も参っているバイストン・ウェルのクリスから、
地上界日本のクリスがどうしてそういうモラル(規範)を持っているのかの理由は、ガーゼィの作中エピソードにはとくにない。生きるか死ぬかだから何でもやってやれだ!とはクリスは考えず、むやみに世界の境界を侵してはだめなんじゃないか、だめだろう、とはこの世界に来て最初の巻から考えている。『ガーゼィ』では地上人はクリス一人だし、そのクリスが地上文明の導入にあらかじめ自制的なせいで、物語中ではマシン増殖もオーラ壊乱も起こらない。
わたしは読み返すと、『あらかじめバイストン・ウェル攻略法を読んでいて完封しにきている』みたいな感触をおぼえるんだ。
これはクリスが、コンピュータゲームや映画や、アニメや漫画に触れて1990年代の少年少女はあたりまえにそういうシチュエーションに馴染んでいるから、だろう。80年代のジョクにも、当時の映画やSF小説くらいの情報源はあり、戦国自衛隊くらいはもともと知ってただろうけど、ジョクやショットがオーラマシンと世界の関係に気づくのは彼らの長い考察を経ての結果。
迫水当時、迫水がコモン界で機関砲を目にして「こんなことは許されん」と悲憤慷慨するのは、間近に血みどろの惨劇を味わった結果だった。
こういう話題ではル・グインが恰好の例なので文化制限法の話題を昨夜立てていた。『ガーゼィ』のこの巻では、ザギゾアがゲルゴーグ・アジの態度をみて、アシガバの武者の考え方も変化している、ガーゼィの騎士の影響で変わった、とか、ガーゼィの軍に対応するために騎兵隊に新しい戦い方をさせている。クリスにその自覚はないだろうがハイン人のモラルだったらすでに許されない。
富野由悠季がル・グインの熱心なフォロワーなんかだったとはわたしは思わないし、富野由悠季は自作のバイストン・ウェルの続きで書いているから多分こうだ。
前の巻では抗生物質についても、バイストン・ウェルで抗生物質を求めることに躊躇している。耐性菌の問題とか今いっとる場合か、のような場合でもあるが、便利だからってこっちのものを何でも持ちこむのはやっぱりやばいよ……という、環境保護思想というより、文化的な合意というのかな、世代としてそれがすでにクリスにはある。
かんがえてみれば、先日の『勇魚』のレビューにそれを書いたばかりだったし、今週の読書は案外たしになっていたのか。
ここでははっきり、アシガバ族のイメージは中東風、と書いてある。コモン界の中東のことだが。ヨーロゥ大陸も地上界のヨーロッパではないがタンタウンをめぐる戦役はその北辺(北欧)のあたり。
メトメウス族は、リーリンスが当初から金髪金髪といわれていて、ハッサーンの髪色は茶褐色と書かれていたがこれは暗がりのことでもあり、3巻頃にはハッサーンは金髪で青い瞳と言われるようになっていてアイシェタンスも金髪。
アシガバ族のどこが中東風なのかはまた、後にして、フングン王の天幕(ハウダー)を載せて運ぶ恐獣ブドゥダは巨象のようなイメージだろうし、いにしえのペルシアっぽくもなくもない。
わたしは、先日も思い出していたが、この『ガーゼィ』のアシガバよりは『王の心』のイメージモチーフがどのへんだろう、インドかイランかのように想像していて、やはりもうちょっと中東寄りかな。
アジャリ、なんかは思いっきり阿闍梨に連想するのでブッキョーかと一瞬思うけどフロー教も中身は全然ブッキョーらしくない。アジャリ・ビィーのような怪談は中国のような気もしたけど、こういうのはグールなのかピシャーチャ女なのかのような区別はわたしに今わからん。
たぶん最初から、先行OSTの1トラックが入ると「あれ、澤野弘之……?」と思う人は何人もいるはず。澤野サウンドよりはポップだけどどうしても澤野曲に聴こえるような。それってむしろ、ガンダムシリーズの現在の基調が澤野弘之になってるのか……みたいな。ジークアクスは「世代撹拌的な」という言い方をこれまでも何回もしたけど、「あれもう遅れてる?」といつの間にか気になる。ガンダム最近見てないのはたしか。
これは化粧と書いてルビも振ってあるが、たぶん「化生」または「化性」だと思う。ガーゼィ全編中、明らかな誤脱字の箇所は無数にあるが、誤脱だとは分かっても正しい原文が推して確定できないことが多く、読んでいてフラストレーションだ。この化粧のところは前後の文意がむずかしいところなのでとくに困る。粧の字でもその意味あるのかもしれんとか、逆に考えるし。
大半の箇所は、「それでいいんだけど、アシガバに攻めれられないようにする方法も考えなくちゃならないんだ。」のような、「攻めれられ」に「れ」が多いな、と見れば分かる程度で、校正の不足に文句を言うのでなければ読者が分かって読むか、直せばいい。
それとはべつに、作中、軍議の最中にそこで「ら抜き言葉」は使わないだろ……文脈上、脱字だろう、というような場合も常識でわかる。
またまたべつに、富野的な言い回しではいつもならこう言うよな、文章の意味は分かるけど富野文として怪しいな、というのも、ファンだったらリズムで絶対分かってるのだが、復刊などするなら監修つきで直してほしいよな……むりだが。
『ガーゼィの翼』あらすじと主な登場人物欄を記入。あと、通読中にバイストン・ウェルの世界とか、ガーゼィ中の恐獣一覧などメモに取っていたが記事としてそんなに用がなかったので主要人物のみ。
『ガーゼィの翼』中、蛮族扱いのガロウド族と異種族ガロウ・ランが混在していてややこしい。最初、3巻でガロウドとかガロウ・ランという種族がいるという話が持ち上がるが、結局のところ両者は別々に暮らしている別のグループになる。ガロウド・ランという種族はいない。
ガロウ・ラン狩りに機関砲を持ち込んだところ、道具の使いみちではじめ圧倒的に優勢だったはいいが、しばらく経つとガロウ・ランの方が上手く道具を使ってくるとわかった。兵器の性能なら知り尽くしていると思ったが、敵がそれ以上の使い方をしてくるとは死ぬまで想像できなかった、などの。それはこのまえの文化制限法のような話を対照しつつ今後追ってもよい。
歴史観の有無で敵に勝てるというのは、敵にその歴史観を与えればこちらが負けるというだけかもしれない。現代人が想像もしなかった史観(言葉遣い)で現代が再解釈されてしまう。
傲慢だったから
という推論については、この世界・この時代のこととしてよい。ただこのあと、
これはつい昨日あたり、ズムドゥ・フングン王の人物について、その恐獣軍団や古伝承についての理解の仕方に、似ている。とくに挙げておくべきは、富野作品の読者について言うと、「傲慢なこと」イコール、駄目な性格の第一要素のように挙げるやつが多くそれは前々から不審なことだと思っていた。
前回、ガーゼィの最中に「ヤマトタケル」を扱ったが、あの中の「うぬぼれ」についても、このグラン王の傲慢と全く同じ意味なので、参照したいところ。というのは、「ヤマトタケル」のテキストを書いているなかにし礼の次作「ワカヒメ」で、その「うぬぼれ」という王の属性が形を変えて今度は倭の武王に展開される。同時代的には面白いんだ。
ズムドゥ・フングンのキャラクターの起源をたどれば直接にはガダバのゴゾ・ドウ、ズオウ大帝などはすぐに挙がるだろう。ゴゾ・ドウの人物として描かれるうち、老覇王ではある一方で読書家でもあり、各地方の古伝や民俗学的文献を好んで読んでいたりもすること。
ぼつぼつと断続的に考えながら、サイコミュからオーラ、アウラ・エナジィ(フロート・エナジィ=浮上力)まで漠然と連想していた。フロー教徒の地位は宮廷や軍でもそれほど高くない。飛行機械の人間エンジンくらいの扱い。
奴隷とかエルフとか強化人間の子を餌付けするファン妄想の類型があるとして、上の話だと「サイコ・ガンダムの胃袋」のように呼ばれるんだろう。自意識がそれだと、そのうち胃に逃げられてもしらんぞ、と。
シンシア・レーンがチョコレートや甘いものが手放せないような原型には、アイリンツーもコクピットではいつも飴をなめてるような、ささやかな描写があった。それくらい遠いと直接関係はないかもしれない。アイリンの理由は書いてなかったと思うけど、消耗が激しいからだろう。