富野由悠季監督作品・著書の周回ログ。現在は主に小説作品の再読整理中。
蔵書マップ
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- 1981-82 伝説巨神イデオン Ⅰ■ / Ⅱ / Ⅲ■
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- 1986-92 オーラバトラー戦記 1 / 2 / 3■ / 4■ / 5 / 6■ / 7 / 8 / 9 / 10 / 11■
- 1987-88 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 前■ / 中■ / 後
- 1987-92 ガイア・ギア 1 / 2■ / 3 / 4■ / 5
- 1987-92 破嵐万丈 1 / 2■ / 3■ / 4
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- 1988 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン
- 1989-90 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ / 上 / 中 / 下
- 1991 機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード 上■ / 下■
- 1993-94 機動戦士Vガンダム 1 / 2■ / 3 / 4 / 5■
- 1995-96 アベニールをさがして 1 / 2 / 3
- 1995-97 ガーゼィの翼 1■ / 2 / 3 / 4■ / 5■
- 1995-96 王の心 1■ / 2■ / 3■
- 1997 密会〜アムロとララァ
- 1998-99 ブレンパワード(共著) 1 / 2 / 3■
- 2010 リーンの翼(完全版) 1■ / 2 / 3 / 4 ←今ここ
シャクティ流のこだわり
シャクティ語のその後の展開は、5巻になると、月面都市に降る雪についてシャクティ独自のこだわりを見せる。「こんなの雪じゃないわ」と呟くところ、雪については彼女に一くさりの蘊蓄と、こだわりがある。
これは事実。シャクティのこだわり処は、
「雪」というより、「物語」にシャクティの押したいポイントがあるようにも思える。人工の雪は軽いのよ、軽い物語しか語れないのよ、雪ってもっと物語るものだし、雪が降って震えるのは、体ではなく心なのよと思ってるようでもある。
スペースコロニーの雪はスペースコロニーの畑と無縁だしね。コロニーの農作物は農業コアのようなところで集約生産される。『F91』の牛乳の話題のように、なんとか人手を入れようという理念はあるが、自然と人のかかわりを語らせればあらかじめ作り事にはなってしまう。でもシャクティもまたそれはすこし厳しいと思うよ。Gレコのように下れば、宇宙には宇宙の夢も物語もあると言いたいと思う。
自然との関わりで築かれる人の規範、というようなまとめになるな……。上で「行動規範」について言葉だけ掠めたので参照しておく。先々に、「宇宙にある海の夢」のような言い方を聴くとき、こういう箇所を憶えていると印象が違うだろう。
戦場の哲理シリーズ
富野小説中の戦闘場面中、兵士が語り伝えているらしき伝説・迷信・ジンクスはくり返し出てくるものもあり、通読なら書き控えておくとよかったかもしれない。三つ四つはすぐに思いつく。
「砲声が聞こえる間は生きている」のような事実は、そこから踏み込んで「構えている間は死神こない」「恐怖を殺して只中に飛び込む」「あとは本能に任せても間違わない」のように展開することもあり、しまいに行くと本当に「哲理」の語りになる。「ビームの直撃は恐怖を感じない」のように分岐して別の展開もする。
富野やガンダムにかぎらず、現実の過去の戦争体験記や戦記小説からの引用を求めれば無数だろうし、作れば後からでも作れる。富野作品に出てくるやつ~の関心だと、思いついても具体的な用例箇所は逐一目で探す必要になるので、面白そうなことは通読時に拾っておくことだ。今度おぼえておこうか。
ジグザグ機動などは「戦術」の一端として、本当にセオリーなんだろうと思うけど、それを見たカミーユやファラが、いつものように「人の感性を逆撫でするように動く」「小癪なかんじ」と思って、次に、ああなるほど、と腑に落ちる節を挿むのは恒例じゃないか。
ガンダムシリーズの恒例のジグザグ(軌跡がクネクネと気持ちのわるい飛び方をする映像)にはセルフツッコミ的な補足エピソードもあり、『アベニールをさがして』では誤って戦闘場面に乱入してしまったあと、何とか射たれまい・逃げ出そうとして上のジグザグに似た飛び方をしようとすると、それが相手方のパイロット達の目にはまさに「攻撃の初動」に映って発砲を誘ってしまう混乱を招く。
Vガンダムおわり、つぎアベニール。4月までにガンダムシリーズまで終わってしまえと思っていたようだけど、まだ『密会』を忘れていた。まあ、ネット封鎖とかは今もう気にすまい。
富野由悠季をユーモア作家だと思っている人って今意外に……でも、そうだろう。人間性の文学性の深みとか、現代思想家のように語られなければならないのか。言われてることは大半「ユーモア」で片がつきそうでもある。
「機動戦士Vガンダム」~交響組曲第二番 THOUSAND NESTS 千住明、を聴く。これもあらためて書くことないだろう……ガンダム関連アルバムではずっと人気だし、わたしも好きなやつ。わたしは千住明アルバムをそんなに蒐めたりはせずにきたけど、ドラマのテーマ曲集ベストとか、持ってても聴かない。交響組曲第何番という作家の通し何番で時折に集成してくれたほうがわたしはいいな。カレンダー組曲なんかはもってる。
つぎ「アベニールをさがして」の音楽のイメージ……のように思うと、千住明という気はわたしはしないかな。当時の雰囲気だと田中公平でも大谷幸でもありそうな気はする。
「沈黙の艦隊」オリジナル・サウンドトラック(1995)も、ついでに聴く。高橋良輔監督のOVA、千住明作曲、演奏ワルシャワフィル。指揮者のアンソニー・イングリスは上のTHOUSAND NESTSもと、このあと菅野よう子のあれこれでアニメ音楽リスナーもたびたびみてる名前だと思う。
スターバスターかパブッシュ艦隊みたいか、事あるごとにナショナリストと罵られる連想かな……。わたしはアベニールを千住明の想像したことはないと今さっき書いたばかりだったが、画が伊東岳彦でなければ案外いけるかもしれない。
盤の説明がややこしい。これのこと。これとべつに、ボブ佐久間作曲のラジオドラマ音楽と、そのドラマもたいへんお勧めなのだがわたしは原作漫画のファンというわけではそんなにないのが不思議。これは別の話。
普通の倫理観
ふつうの人
ふつうじゃない人
『ピアスくらいいいだろ』という感想はアベニールではこの後くどいくらい続くので、忘れる。
『ごく一般的なニュータイプ』『五万人ほどのサイキッカー』などが平然と語られる場所でサイキックとニュータイプがどう違うのか等、初歩的な疑問すぎて訊けそうにない。近未来SFや遠未来のテクノロジー万能社会に微弱なプレコグやPK能力者が普通に認知されていていまだ説明がついていないことは普通のことだ。
ニュータイプは同時代に対して普通じゃないタイプをいうが、サイキック自体はサイガ・ババ級の能力者もきっと民間にいる。フールケアに常識や慎みのないのはいずれにしても問題だ。小型核融合炉やEMOがあってなんでピアスがだめだ。
『どういう男とだっ!』と鉄仮面がひとり叫ぶとき、もし聞こえていたらそこを指摘されるのはセシリーにはこの瞬間にもいささか不本意だろう。シーブックには本懐と思える。
『シーブックならいいのよ!』とは胸を張って言えないと思うな。『機械ごときに!(つべこべ言われることじゃないわ!)』と押し切ってしまうか……弁論部。
ニュータイプなどは一山幾らで扱うフォンセ・カガチが個性としてもっとも優れている・偉大だわ……のように思うやつは一定いると思う。ありふれてると思うが、木製帰りにしてもカガチを「ニュータイプ」と認めて語られることはない。その場合は、宇宙人になりきって異質の倫理観を振りかざすようになった人々、などいう。
ゴドーを待ちながら
サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』(1952)を読む。安堂信也・高橋康也訳(2009新装版)。『アベニールをさがして』この後の章にその話が出てくるから、そのついで。今夜、第一幕まで。訳注に構わなければこんなのすぐ済む。
『ゴドーを待ちながら』第二幕、おわり。これは手元にしておいても良い本だ。わたしはこの頃の演劇がそんなに得意分野ではないけど、これをどうやって上演するのかが非常に面白いやつ。今は富野通読の話が主……。
富野作品と不条理劇のようなことは、直接にはあまりないだろう。富野アニメにしても小説にしても、作品自体は不条理な作品はめざしてなく、右肩上がりに上昇していってカタルシスという考え方だと思う。劇中、点々と意味不通な台詞の応答や、何も起こらない、のような要素は感じられてもそれに専念してそれをしようとしているとは思わない。
このたびの通読では前回Vガンダム中のウッソに、強い目的意識をもつことへの疑い、のような台詞が、ちらっと混じった。『Vガンダム』全体がその話になっているかは、べつだが、その順序は憶えておくといいと思う。それはないわ、じゃなくて、ある。
エンジェル・ハィロゥのようなエリアでは、心に思うことが率直に現実に起こる。人の思うことは他人の思いに溶け込んでくるし、全面的にファンタジー世界に突入している。その場では、「何ができるか」より「何を望むか」ではなかったか、もしも意思の強さが問題なら、人類を抹殺する意思が強ければ意図としていいのか、のように反省させられると、そこはむしろ幻想文学がもっぱらにする領域になる。「語り」の興味では、寓意や目的を志向しない・語らないとか、何かをしようと言いながら何も始まらないとか、信じてはいけないと語る、物語の方法もある。
このあと『アベニールをさがして』では、読むのはこれからだが、ここではベケットの古典的な価値とか、不条理劇の面白さの説明などはまた、全くないと思う。読者は知ってる前提だ。そこは日向オノレ君がアケモちゃんの気を引きたい一心で懸命に喋っているところ。たぶんこんな感じ、
「実のところ今だってさ、正確にいえば僕たちが必要なんじゃない。テンダーギアは優しいマシンだし、他の人間にだってこの任務はやってのけるに違いないよ。僕たちより上手くできるかどうかは、別としてさ。インスパイアー・エンジンや、アラフマーンのスペシャリストがいるわけじゃないんだ。ベストン・クーリガの呼びかけは日本人、むしろ人類全体に向けられたものだった。ただし、今現在この場では、この場でアラフマーンにもっとも近い位置にいるのは僕たちだ。これは僕らが好むと好まざるとにかかわらない。この立場は、手おくれにならないうちに利用すべきだ。運悪く人類に生まれついたからには、せめて一度ぐらいはりっぱにこの生物を代表すべきだ。そうだろ?」
「ごめん、聞いてなかった」
「確かにね。事の賛否を互いに一々検討して考えぬくことも、人間の条件だ。笛吹中尉はサージェイのダイサンカのビジターであるからには、わが身に少しの反省もなく任務に邁進できる。フール・ケアさんはすぐにアウトサイダーを言って、ただちに逃げ出す。でも、問題はそこにはない。「僕らが」「現在」「ここで」何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ。だがさいわいなことに、僕らはそれを知っている。そうだ、この広大な混沌の中で明らかなことはただ一つ、すなわち、僕らはアベニールをさがしているということだ」
「そりゃそうね」
みたいに、めちゃくちゃ語りたくなるのだがだからといってオノレとアケモちゃんが手に手をとって宇宙に飛び出していくかというと、発進しない。オノレは、ネットゲームでやっているシェイクスピア時代の英語が好きのように書いてあったけど、シェイクスピアを熱読しているかは、わからない。高校生に演劇史や文学史が語れるわけはないだろ。わたしは面白いので、やろうかな。今度は英語を直にと、折角するなら福田恆存作品の延長でつづきだ。
Toward Star
そういえば先日、『アベニール』の想像上のサントラとしてはどうかで、Vガンダム続きイメージで千住明でもどうか、同時期の『沈黙の艦隊』なんか聴くと案外いけそう、という話をしていた。
そのときに大谷幸といっていたのは『アウトロースター』のことで、アウトロースターのOSTも昨日少し聴き直してみたけど、わたしはどうも……今そういう気分でもなかった。伊東岳彦のトワードスター世界もったいなすぎるので、わたしも今でも多少の未練はある。
その繋がりだとゴドーを待ちながらというと、『宇宙英雄物語』の連想の方があるけど、挿絵だけをネタに富野小説であえて語ることはとくにない。インティパ世界ってエーテル宇宙じゃん、でもバイストン・ウェルとの関連や連続を語った方がこちらは強いし。
ベックメッサー
これはワーグナーのリスニングからの続き。
クンパ大佐は劇中でずっと「他人のあら探し 」をしていて、言うことはかなり手厳しいところもある。アイーダに言う、道具の使い方云々とか……。
レコンギスタ運動はもとは彼が仕組んだ騒動とはいえ、劇冒頭のラライヤ事件から始まる一連は彼の意図ではなく、想像以上にナンセンスだ。ときには生真面目に、あまりに地球人が馬鹿馬鹿しいので苛立ちもする。
スコード世界の中枢キャピタルにいて、出身不詳の余所者なのに各国のタブー破りの監視をする調査部の長に就いてる、あからさまに怪しい人物だが、その物腰で誰からも敬意は払われている。実のところは、アーミィの士官達からも煙たがられているのだが、人から敬遠されることについては気にしてない。そのくせ、ジュガンごときが「あのなあ」とタメ口になると、あとでかなり気分を害している。
こっちからわたしの連想するのはコードウェイナー・スミスの『鼠と竜のゲーム』。それをいうと今度はまたアウトロースターの「猫と少女と宇宙船」。富野読む気ないのか…。
マリア・アーモニアとアベニール
このまえ「マリア・アーモニア」の名前はいかにも新興宗教っぽくてありがちな名前だ、といっていたけど、小説Vガンダム中にそのアーモニアの由来そのものの説明は結局なく、1巻でウッソがフォンセ・カガチのめざすところ(動機)にある文化混淆的な趣味の一つに挙げていたくらい。
アベニール1巻で、「アベニールってなにか」と初めて訊かれたときにゲイズ・カレッカ少尉が、『そのへんの新興宗教の教祖さんとか自称預言者というのが、使いそうな名前じゃないか』と半笑いで返す。わたしはこういうところを混ぜて憶えていたのかもしれない。カガチではなくか。
マリア団体の成り立ちをよむと、ヒーリングができるようになったマリアの活動を宗教団体として政庁に申請するまえに、もともと余所の新興宗教にいたスタッフが、ビデオで売っていたりしたマリアのそれまでの言葉と、キリスト教等の既存宗教の文脈を突き合わせて辻褄の合う「教典」なるものを作ってくれた。最低限、何を説いているかはっきりしないと団体として認められない。
それまでは、マリアの言葉というのはアドリブで「お告げ」のように喋っていたが、それが時代の空気にあったというのも、マリア発明の独創的な内容というよりは当時のスペースコロニーではありふれた、もともと皆知ってるような教えだったのだろう。宇宙で暮らす人々は大地との絆を失っているのです、とか、母胎的・女性的なものが大事ですなどは、どこのスペースコロニーでも言われていそうなことで、無学なマリアが人に話すにしても不思議でないと思う。ただ、最初からそんなことを語るために宗教を思い立ったわけではなかった。
テンダーギアの名前
フール・ケア感
フール・ケアは「誰でも使える簡単なマシン」と素朴に思っている。
オノレ感
宇宙用のマシンの必須条件として操作が直感的であったり、機種間でもあらかじめ共通化しておくような、ユニバーサル・スタンダードのような考え方を、オノレは多少のメカマニア的な興味でフール・ケアよりは普段から持ってる。初めての操作にはあっぷあっぷしているが常識的な想像力の範囲でわかる。
笛吹感
笛吹はプロのパイロットでマシンが自分の力量に応えてくれる気持ちよさに感動している。使いこなせば真価を発揮する。
ただ使い手を選ぶ道具、「ピーキーすぎておまえにゃ無理なマシン」のようにいうと、いかにも人に優しくない。1994年頃ならYF-19なんかは殺人的機体だったし、富野小説でも最初頃のビクトリーにマーベットが悪戦苦闘するところは機械がまるで優しくなかった。ビクトリーの複雑さと脆弱さにはウッソは再三苦言を呈していた。
に、してもオノレ少年が初めてでムッシャンを飛ばせたことは驚異的にはみられる。それはインティパが介在したからじゃないかなんてわからないことをいうが…
アベニール1巻読了。やはり物が絶版で入手困難になりつつあるものに、初読向けのあらすじなんてレビューに書き込んでおいてもしょうがない。どうしても読みたければそのコストで自力で読むから。挿絵のフール・ケアがいい。
EMOとインティパの当時のアイデア参考は巻末に文献が載ってる。『アベニールをさがして』小説自体の突然始まって突拍子もないような情報量や、難解かもしれない"筋立て"のようには、富野作品に読み慣れていれば何ということはないし、先日の『ゴドーを待ちながら』のような途中で寄り道をしていても本は逃げはしない。わたしはこのあとでバルザックを読もうかな。
『Vガンダム』から続きで読んでいると、シャッコーならぬ今回は空からアラフマーンが降りてきていきなりエンジェル・ハイロゥから始まった感じ。その場の全員に何かはわからないがとにかくアベニールの名前は目的意識として共有されてしまった。
とくに、フール・ケアにはアベニールは「救済」のイメージと不可分に結びついてしまったらしく、軍人の笛吹の理解では目的というと「脅威・敵」という語になるのに過敏なほど噛みつく。フール・ケアは饒舌だが、口数は多くても自分の言いたいことを相手に正確に伝えることができない、元々それでアウトサイダーになっているようなややこしさで、文学者としてのシオ・フェアチャイルドとは対極のようでもあった。
コンラッド・ヘイヤーガン
『アベニールをさがして』2巻10 ヘイヤーガンのところだが、わたしは前回、3か月は前に言っていてその後順序通りに読んできた結果、折も折というか今頃になった。ここまでの情報をまとめる。シャアやシャリア・ブルや、カガチ等とどう違うとか、小説執筆順でどこが新しい等、いえるだろう。文中でこれまで語られること(各人の憶測含む)。
一般的理解
サージェイやネフポ側からの憶見
より正確な情報
人となり・容貌
顛末
上のような人となりを述べた後、作中に初登場するなりテンダーギアのメッケードで突進してきてアラフマーンを圧倒し、猛威(と暴言)を振るうヘイヤーガンは、上の人物像ともちぐはぐで、精神感応で憎悪・侮蔑を吐き散らす独善的なありさまに笛吹・オノレも呆気にとられる。
狂暴に襲いかかってきながら自分本位な理屈を語り〈同盟者になれ〉と一方的に呼びかけてくる描写は、富野作品のずっと昔の小説版『機動戦士ガンダム』中、ブラウ・ブロのシャリア・ブルを思い出させる。これは通読していれば必ず連想すると思う。
シャリア・ブルがサイコミュによる相手方(アムロ)へのダメージを理解していなかったように、ヘイヤーガンはメッケード(攻撃型のプロトタイプ)を対話の発信機にして扱いかねているような文章の節でもあるが…。
富野通読上の諸点
軍事力による大衆管理
上記のヘイヤーガンの唱えるところ、「力による大衆コントロールは必要」というのは、本作中では日本のサージェイも同じ、主人公の側の笛吹がその最先鋒でもある。サージェイ政権はまた官僚的になりきってしまい軍国の実質をなくしているので自分一人だけでも軍人になってやるとも思っている右翼だった。
軍事力による管理の正当さを保証するのは軍人の心根の高貴さと折々にいわれる。不良軍人の笛吹でさえノーブルを口にする。人間が本当に高貴たりえるか、何をもって高貴とするか、どうすれば高貴になるか等は続けて悩ましい。
贖罪観
過去作品では、シャアはすでに「地球への贖罪」を言ったが、逆シャアの時点で贖罪云々はむしろ唐突に言い始められたようで、「地球に対して贖罪しなければならんのだ」といって、具体的にどうしろ、人類には地球を退去して核の冬にすることがどうして贖罪なのか、などは曖昧だった。
このたび小説通読では、『Vガンダム』2巻に「人間は自然に対して謙虚であるべき」考案は詳しい。そこでは、さらに続いて「人類は地球への贖罪もやめなければならない」とも進んでいた。人の罪深さを口にしながら結局同じことをしているか、それを隠れ蓑になお業深いのは、中世のキリスト教会もそうだし、贖罪観念自体は地球連邦も当初から言っている。
ここまではカガチとも共通で、Vガンダムのその章ではオリファーが論じていた。罪深さ・後ろめたさで生きてもいけないならどうしたらいいの、死ねというの…?とウッソは暗澹と思うが、オリファーはじめ当時の宇宙青年達がするディスカッションの共通話題ではあってもその場の結論は絶対に出ない。「ニュータイプなら今後うまく考えてくれる」というのは願望だ。
(追記)贖罪観についての追究の続きはこの後『王の心』七話に見られるようだ。ここで終わってはない。
殺戮者の態度
アーマゲドン史観・人間観のような思案をあえて蒸し返してみて、人類粛清に赴くヘイヤーガンの態度はどんなものかを考えると、ヘイヤーガンはもともと大量殺戮は望んでいない。それに悲しみ、悩みながらなんとか慈悲深く優しく収めようと苦悶しているのはカロッゾともカガチとも異なる。
カロッゾは良心の呵責を回避するために万策を講じているし、カガチは全人生を賭けたブラックユーモアの発露としてそれを考える……生涯を費してやりたいことなら、誰も思いつかない悪魔的アイデアこそやってみるに足る。機械的な処理方法や愉悦的満足を求めず殺戮に対して正面から苦しんでいるのは、わたしはハサウェイより、人を殺して最後に泣き崩れるケネス・スレッグの連想をする。といっても、コンラッド大佐とケネス大佐を連想する人はあんまりいないだろう、ここだけ。
あまりにも理解されないので『レッド・インディアンの恨みか!?』とまで勘ぐられたりするが、それはヘイヤーガン本人にはもっとも不本意なところのようだ。
ヘイヤーガンのネイティブ・アメリカンの出自はここまで全く言われていないので、笛吹が知っているのは前段までの劇の外でネフポのスタッフから訊いたか、インティパ効果の感応中でヘイヤーガンの心から読み取ったということなのかもしれない。
ユーモア
思想家としてのヘイヤーガンの責任感と良心は疑うことでないらしい。理想的な発信者としてはもう一点、ユーモアの有無は問いたいところで、ヘイヤーガンには申し分なく真理を語れてもユーモア欠乏ではないかの感はある。
理論面ではシャアよりヘイヤーガンの方が進んでいるはず。一方、シャアは発言ごと・振る舞いごとに人をニヤリとさせるユーモリストでもあり、その点でみればヘイヤーガンは及ばない。髪型は欠点ではない。
最近のもの思いでは、クンパ・ルシータ大佐は思想家であり、責任的立場からは行方をくらましてしまったが、悪意となかなかのユーモアセンスの持ち主でもある。
宇宙の原始教義
ステーション(小型のスペースコロニー)、フロント1に近づいたところでネフポのヨーゼフ大尉がアベニールの名前を思い出す。それは新興宗教の教祖だという。
宗教的な象徴としての女王は前作『Vガンダム』ではマリアがいた。それはカガチの傀儡だった。こんど、ヘイヤーガン大佐が自著で想定する宗教の有効さは少し考えてみたい。ヨーゼフ大尉は精神安定剤だと言っているが、ヘイヤーガンの人物は上で書いていて、「大衆コントロールのために宗教は麻薬」のような安易な大衆支配のイメージはここでは語れない。
フロント1に聖堂があるコスモ・クルスの巫女アベニールは、ヘイヤーガンのプロト・フロンティア帝国のとくに女王というわけではないが現地で尊重されている宗教的な象徴(シンボル)である。
このあと3巻を見ると、スペースコロニーでも彼女個人が警官等からけっこう敬意を払われている。政治的な発言権・権限があるわけではない。ここでは巫女の求心力でなく、宇宙の宗教について考える。
ヘイヤーガンの著書にいう「原始宗教」(に近いもの)とはどういうものを言うのか……
とりあえず、「原始的でない宗教」といってみると、都市国家の王権を保証するとか、戦争に参加する意味を宗教が語るようになると、自然と人間という素朴な場面での宗教の役割とは一線を画す。宗教史はわたしの専門ではないが、わたしは今エリアーデを再読しているところでもあったから、ここでは原始的な世界観における実存、を取り上げたい。原始宗教は必ずしもアニミズムのことでもない。その時代当時の人々の実存問題についての語りかた(コード)。
身の回りの自然の物象、地球では太陽や月や星の運行や、風や雲や川や、大小の動物(クマやウサギやキツネ)のそれぞれについて、それぞれの起源を担当する生命力、神々や精霊のようなものを認めて、人の生活とのかかわりを物語るなら、その素朴な神話語りや儀礼を司る呪師や巫女が行っただろう。ここの一連ではシャクティ語を思い出してもいい。
宇宙時代には宇宙現象について、やはりまた自然の天体や、人工天体や、銀河について、宇宙空間での人間生活や生理などの事毎についてを語る態度を言うだろうから、ちょっと想像したくなる。が、ここまで言って『アベニール』作中の実際は作中のコスモ・クルスの説教をきけばいい。「宗教」が迷信や麻薬や方便という印象は、もうないはず。
宇宙における物事の捉え方はああも説明できる、こうも言える。経済を至上に語ってもいいし、国益を語ってもいい。ヘイヤーガン大佐が考えるなら宇宙生活者の規範はどのように語られるべきかを考えただろう。ファンタジーではあるだろうが、スペース・コードを語るにも宇宙でファンタジーは無用ではない。
「大衆をまやかすすべ」のような宗教のイメージがコンラッド大佐のテーマでないのは、コンラッド大佐にとって愚民は教化するか殲滅対象ではあっても、余剰人口にすぎない愚民を愚民のまま飼い馴らし統治しようとは考えていないからだ。
『アベニールをさがして』2巻読了、つづき3巻。
2巻16章わたしは再読して面白いが、これは流石に初読ではハードルが高すぎる。互いの言い合いの内容が読者はほとんどちんぷんかんぷんだろう。わたしは著者の通読・周回しているからではなくて、最近こことはまた別の関心で日本の現代音楽史での連想なんかしていた、けどそれはわたしの趣味で他人にわからない。
……さっきのような、「将来のGレコ」みたいなフェイントを振っておいて裏切られてみた方が今読むには面白い。わたしはヘイヤーガンに熱心に思い入れて読み返してはみたかったし。今それ。
宇宙の宗教のところでメモっていて、あとで気づいたが、富野小説作品を読んできてここまで「実存」という言葉は出てこないようだ。それは確かめてみて意外に思ったくらいだけど、この『アベニール』2巻にだけふと「実存」の語が出てくる。
実存という語がまた、日本語で使う人によってだいぶ意味合いに幅のある言葉だ。実存主義とかいうときには、それに伴って個人の孤独や不安がつきまとうような(伝統的に)言い方もするし、それはなくて純粋に(情感を伴わず)自体存在、というのに近い場合もある。『アベニール』ここで使われているのは後者に近いと思う。
16章の、何がといってともかくステーションのアミューズメントで殺人ヴァーチャルをさせているといって、みんなでアベニールを叩きにいくところは、今読んでも当時にも、読者も「そうだ、そうだ」と納得するよりは、話がクサくてげんなりする気分になるかもしれない。わたしは、フール・ケア以下槌田艦長らの絡み方のほうが何だかいやらしくて、大人げないと思う。
それはそれとして、この小説当時の1995年という時勢は考えて思い出してみないと、公平でもない。テレビの見すぎとかアニメじゃないとか言われたのが10年は昔だが、より現実に少年の銃乱射事件とビデオゲームの直接関係が明らかにされたり、放送映像の規制論議やらになる〈年の順序〉というのは大まかに把握してはいても正確に因果順で憶えてはいない。
だから、
という目線で一歩引いてみたい。富野由悠季は殺人ヴァーチャルにそれほど怒れる人かというと、当人がガンダムはじめ戦争アニメの筆頭当事者であるし、凄惨でグロテスクなエヴァ的映像につべこべ言えるほどVガンダムやオーラバトラー戦記(92年完結)が健全だったこともなかっただろう。
おおざっぱに映像規制の当時の動きと、世相や放送局に対してアニメ作家各々の態度などまた細かくなるだろうが、わたしは「演出家としてはファンだが無責任な態度はいただけない」ような分裂した感想を点々と思ったあたりだった。そこまでで、今後触れない。
上のは流石にあやふやな言い方すぎたので、この際すこし時代的・歴史的概観を補っておこうと思った。わたしは今、富野「小説」を読んでいるところでアニメ史のような関心が深いわけではないがあれば役に立つ。
新書。総論として手引にする。氷川竜介さんの記事のあれこれはわたしは常にお世話になっているが編集監修解説を除いて「著書」は案外手元になかった。
個別話題、わたしは富野論よりこのテーマに興味がある。藤津亮太さんの著書も読んだことがない。
もう数年はほとんどアニメも映画もTVも、ネット動画も観てもいないのに今更アニメの歴史に詳しくなろうとは思わない。昨年までの続きで、殺人または戦争、の話に興味がある。
メディアの暴力性についての批判の経緯などは、評論家や教育家の本は今いい。歴史や心理学的な基盤に遡って詳しいのは、
これは先日挙げたばかりだが、やはり内容が良い。この流れではとくに1995年というのがリアルタイムだ。この本は有名だったらしいが、心理学にも知覚や認知や行動や動物や社会や教育や、実験や比較やというジャンルがこまごまあって書名も知らない。
演出家としては云々は富野ではなくて真下耕一『EAT-MAN 殺しの遺伝子』が念頭にあった。真下監督は文筆家ではないんだ。
『アベニール』物語中、交戦の合間合間に恒例のディスカッションというか、皆がそれぞれ根拠のない憶測や空想・思いつきを並べて雑談する。1巻の冒頭から謎の敵が口にしていた、「ネオ・フリーメーソン」といういかがわしい名前の団体について、2巻5で、
アケモちゃんが妙なことに詳しい。オノレは一言もなかったが、そのあと3巻8では、
めっちゃしゃべる。オノレは、フリーメーソンの件について自分が先日まで無知だったことを忘れているか、突然降ってわいた知識を語り始めたかのよう。
と思うのが手っ取り早いし、富野小説中でこの種の辻褄の合わない点はこれまで幾つもあった。が、
『アベニール』作中ではベストン・クーリガ以来インティパのせいで人が物わかりがよくなったり説明ぬきに話が通じる例が度々のように、ないとはいえず、この際もオノレが自覚していないとしたら場面と無関係に不気味だが……エンジェル・ハィロゥの場でも似たようなことが最近よくあった。
穏当な解釈だけど前巻からそんなオタク会話を親しく続けていたような気はしなかった。そうだったら作中にあらためて書いていただろう。
3巻のこのところは上に続いて、「G」という神秘的なキーワードが明かされる。フリーメーソンの秘密教義だ。富野読者で「G」といって誰も興味がないはずはないが、ここの話を取り上げて語ろうとは誰も思われないらしい。
Gの建築
「G」ときいてガンダムのことかと思わない読者はいないが、『アベニールをさがして』はべつにガンダムや宇宙世紀作品ではない。あっけらかんと秘教的な説明をしながら、かといってこの話が本作の全体にそれほど重要な意味があるようでもなかった。
だいたいガンダムのGにそんな深い意味があるわけない、ガンボーイがダムになった名残りだ。あったとして元気のGがgreatest gearだよ。
にかかわらず、わたしはここでの「G」の釈義がこれまでも大変気に入っておりそれは『Gのレコンギスタ』の設定とも通じるものがある。ヘルメス財団は建築家の集団というよりは、ワグネリアンの集まりという最近の印象になってきていたけど……。
富野小説を読み返すたびに音楽を聴く、アニメならその交響組曲アルバムをめくるのだが、『アベニール』にはイメージアルバムもあるわけでないので、このまえは千住明などを紹介していた。アベニールの小説終盤近くは劇のシチュエーションや台詞が『Gレコ』(劇場版)に反映されているか、似ている節はかなりあるから、GレコのOSTでもいい。
劇伴音楽でない菅野祐悟作曲、「交響曲」と銘打った作品が現在2番まである。
この2番の副題「すべては建築である」はまた、Gレコともフリーメーソンとも一周してやはり関係ないのだけど、劇レコ頃に好きに関連づけて聴いていた。わたしは今夜これを聴いておこう。曲は、それほど堅いものでもない。
『アベニールをさがして』は作中の世界情勢にも技術的な事情にも一通り説明があるが、「テンダーギアはなぜ人型か」というロボットものの基本的なところは触れずに事前了解事項になっている。アラフマーンなど神秘の域に入っているのに不動明王か阿弥陀かの前にどうして人型かなどは、今更いうまでもないようだ。
モビルスーツよりはオーラバトラーの人型の理由を思い出したい。『オーラバトラー戦記』5,6巻のあたりにその話がある。それと、上のようなところを思い合わせてみると、「G-セルフ」の名などもまた違った意味を見つけられるように思える。
女に目覚めるアベニール
これまでの続きでいうと、祈女のアベニールは『アイドルになりたい』と思い始めたということらしい。それは2巻でフール・ケアらに問い詰められて〈わたしも美しいよ……!〉と心の叫びを発したときが彼女にとっての初めての女性性の目覚めだった、というのだが、ここまでの順序で読み取れる読者はあらかじめ相当に富野的に鍛えられていないとならないと思う。
コスモ・クルスのアベニールが宗教的なイコン(ヘイヤーガンの広告塔)であることを自発的にやめるなど、女王制などはまたヘイヤーガンの望むことではないらしい。これは前回書いたことで分かろう。
ダンサーのアベニール
17章のダンサーの話は面白い。ここでは、上のヘイヤーガンの記事で一回まとめたけど『Vガンダム』と『アベニール』は続きで読み合わせてみるといいな。
その、当のダンサーの人物素性がまた読者には全然わからず、出会った当初はテレパシー的感応のことは覚えがないと言っていたのに、何故か一行に付いてきて後には当り前のように人の心を透視している。何でも知っているようだが…? 分かっていることは、オノレやアケモよりは歳上だけどフール・ケアよりは下、北欧系、かわいい。
ダンサーのキャラを作中で一言で表しているのは「へらず口」。饒舌多弁かつ支離滅裂で誰にでも食ってかかって負けん気でいたフール・ケアを切り刻んで退散させてしまう。わたしはこのたび通読で、宇宙世紀のへらず口ヒロインにセシリーを挙げてもいたけど(まだ言うか!!)、ストリップダンサーとセシリーを較べようとはこれまで思わなかった。セシリーにはそれに「聞き上手」という美徳があった。
ダンサーの経歴はオノレが少しだけ推測するが、わかることは、恐ろしく感受性が鋭い。その場にインティパ効果がなくても、フール・ケアの痛い所は彼女を観察するだけで暴いたのだろうと思う。そのうえで人の気持ちに斟酌しないのか……というよりは、ダンサー自身の裏表のない生きぶりからか、心の弱みを隠そうとしているやつが嫌い、弱いやつには容赦しない。フール・ケアの人格はこれまで散々分析されてきてしまった。具体的な過去は決して語ろうとしないが、これらは終章に響いていくんだろうと思う。
ダンサーは見た目と裏腹にあまりに教養的なキャラで、巡礼小説の人物みたいに思える。――そもそも『アベニールをさがして』というタイトルから天路歴程みたいな響きだ――こういうところが一部のガノタ読者には「つまらない」と書かれる所以だろう。わたしは今の話であらためてこの娘に興味がわいた。30年前の絶版だし、誰もいらないならダンサーはわたしがもらっておく。えっちだし。
『アベニールをさがして』3、終わり。上の通り、今回念入りに読み返すことができたので満足だ。
つぎ、『ガーゼィの翼』5巻シリーズに行く。ガーゼィは、わたしは富野作品中で一番きらいなシリーズだ。その次に嫌いなのが『ガイア・ギア』……と言っていたけど、この通読では意外に印象が変わったので、ガーゼィも再評価あるかも。
ガーゼィのなにがといって、まずテキストに誤字脱字の多さが苦行レベルなのだけどわたしは前回、何年前かに一度書き込みを入れていて今回その愚痴はあまり言わなくておこう。作品自体、主人公クリスの性格が非人間的だとか気味が悪いとかは言うかもしれない。
先に上げたヘイヤーガンについての課題は十分にやった。こういうのは予告して掲げておくものだな。
「ガーゼィの翼」オリジナルサウンドトラック、を聴く。鷺巣詩郎作曲。今、原作小説を読み返す前にイメージとして思い返してみた、わたしはわりと嫌いじゃないテーマソングを聴こうと思ったのだが、ついでにアルバムを聴き直す。
OVAガーゼィの翼は、現在のアニメ愛好家の基準では映像的にさほど楽しめないか、むしろ好事家(マニア)が面白がる代物で普通にあんまり勧められない。だが、OSTは単独の音楽作品としてそれなりに良質なのでまた説明に悩む。それも作曲家の関心から「鷺巣詩郎の音楽」といえばこうかというと、そうでもなく、同年頃のエヴァンゲリオンとは方向が違うし、無論まだ天野正道とタッグの頃でもない。こういうのってわたしは鷺巣詩郎より池頼広のどれかを今連想していたのと、シンセの音を聴くにつけ古いコミックのイメージアルバム……寺嶋民哉とか蓜島邦明とか……を連想してしまい、やはりなんともいえない時代感がする。
富野音楽ではこの後つづく、菅野よう子のハナモゲラ語~というわけでもなく、このガーゼィの詞を歌っているのは英語だ。この「Garsey's Wings」と、だいぶあとの「リーンの翼」の音楽(樋口康雄)を較べてみたりすると、オーラロードの音楽といえば人は違っても意外にこうなってしまうのか……? みたいな、面白さでもあった。
エクソダス/白鳥伝説
ガーゼィの翼にOST以外に音楽のイメージがあったわけでもないがこのあとまた考えごとをしていた。
バイストン・ウェル物語はだいたい地上界から落ちてきた普通の青年が主人公なので、もともと「亡国の王子」のような素性はない。「英雄伝説」(ヒロイック・サーガ)の副題がついていることはあっても、先代・先々代に遡る復讐の歴史と家名再興のような伝統的なサーガ観をやっているわけではない。
『リーンの翼』のアマルガンと迫水の決起は、もとは天命だの、時代の民心にその要請があったわけでなく、荒武者アマルガンの野心に発している、国盗り物語として始まる。
『オーラバトラー戦記』はドレイクら騎士の時代の終焉を語った後、急激な近代化と新世界体制への統合を謳う覇権主義の台頭を挙げ、ジョクはレジスタンスに身を投じる。
『ガーゼィの翼』は、帝国に叛旗をひるがえすとか世界秩序の問題より、現状の圧政下からともかく脱走しようとする民族大脱出(エクソダス)が物語序盤の目的になる。バビロン捕囚か出エジプトはイメージにある。エクソダスと、日本武尊の征戦とはまたベクトルが逆のようで……『ガーゼィ』中で日本武尊がクリスに何をさせたかったのかは今よくわからない。
そのあとさっき、天野正道作曲の吹奏楽曲「出エジプト記」(2000)を聴いてみた。浜松交響吹奏楽団・浅田亨指揮、アルバム「GR」に入っている。聴いてとくにバイストン・ウェル感はしない。このタイトル自体、作曲者もそれほど聖書にもとづくよりは、天野正道さんのいわゆる「架空の映画音楽」というやつでドラマチックで劇伴ぽい音楽のときにパロディめかして言われる。これは魔界転生…。
天野正道プロデュースのバンドで、昨年、ブラス・ヘキサゴンのアルバムに収録の「3つのレジェンド」(三枝成彰,2009)を聴いた。「優駿」の音楽はまたガーゼィより荘厳か美しすぎる気がするが……吹奏楽の音色だと印象が和らぐ。「ヤマトタケル」は、そんな音楽の連想で今年の正月に聴いていた。いま、結局あまりガーゼィの翼とは関係なかった。優駿 ORACIONのサウンドトラックは2023年以降配信されているようだ。
『ガーゼィの翼』1巻のダラガウとリーリンスの挿絵は挿入する章を間違っているみたい。
剣道少年の実戦化
クリスはこういう子だからそのことに今不審でもないが、最初の困惑から「軟弱な現代っ子」の態度を出したあと、始まってみればわりと戦闘マシーン――そのつど「偶然である」「運がよかったのだ」と補われるけど、読者には最初から着実に戦ってみえる。殺傷の場が収まるとまた一転してヘタレかのように書かれ、周囲の見る目も、しばらく、かなりのあいだ評価が低い。
クリスはもと剣道部で現代剣道にも弓道にもそれなりに造詣がある。本文では事毎につけ『現実がコンピュータゲームとは違うところ』を書き込まれるが、富野由悠季が現代っ子にワイルドさを求めたいような、それとこれとは違う気がする。銃の訓練の話でだが、シミュレーターから現実の武器への移行のこと「移行射撃」について、FPS慣れした現代の子供が実銃で人に弾を当てられるまでの移行のスムーズさは軍隊以上という話があった。
剣術の場合、スポーツ剣道から異世界での実戦移行する実例がないからわからないが、戦国の終わりから実戦のない江戸時代を通じて道場での稽古研鑽で理論的に磨かれ、明治以降は道として精神性に重きを置かれるようになった(とされる)剣道が、スポーツとしての修得者も短時間の「移行期間」を経れば実戦化しうる、そのときは物凄く強いという説はあるし、ガーゼィのこの後でもあったかな。迫水は直心影流……クリスは示現流を見学したことがあるらしく、初めての乱戦ですでに思い出している。
嫌われたら死、卑屈も死
『誰も知ってくれる人のいない世界(or宇宙)では、人に嫌われたら終わりだ』という思いは、このまえ日向オノレ君が言っていたばかり。その如才なさは卑屈に見えれば人に侮られる、というか、まず読者に嫌われそうか。カミーユなんかは元々あまり言いそうにない。アフランシは逆にはっきり卑屈って書かれていた。それに較べればジョクはヒロイックだった。
説明としては『リーンの翼』に詳しい。
『クリスはもともとキリングマニアの質なんじゃないか?』という感触の話だな、上の。それは、スポーツ剣道が実戦化する可能性は十分ある、と。
80年代、90年代のライトノベルでも「異世界剣士VS学生剣道」のシチュエーション語りはたびたびあったろうと思うし、わたしは具体的にそれほど思い出せない。
それとはべつに、
などが、たびたび不気味に見えたんだと思う。一言で姑息な立ち回り。その二点もアフランシに共通のやつか。
ガーゼィの翼1巻読了。早い。
あと、これも記事作成・加筆求むになって放置されているから、今せっかく通読の折なので一応手元にメモは集めてみる。冒頭までのあらすじ・主要人物・世界用語しかする気はない。わたしはライトノベルやアニメ界隈の記事にあまり触れたくない事情は前いったけど現状不備で、わたしが不便でもあるし。そういうのネタバレを漁らせるためなんかではない。
どこを読めば面白いかというと、後書きにわざわざあるように『ガーゼィ』にはフェラリオが出てこない、OVAにはわざわざ新規に起用されたが小説には出てこない。代わりに作品のマスコットをつとめる少女二人、アイシェとタンス。10か11歳くらいと書いてあったかな。初読者は常に幼女を眺めていればクリスの気持ちにも耐えられる。
1995年頃でリーリンスを見て「バンカラ姉ちゃん」と思う19歳くらいのクリスの語彙はちょっとアナクロだな……。今これくらい。
オーラバトラーも出てこないことを書いてなかった。オーラバトラーは必須じゃない。当時、バイストン・ウェル物語にオーラバトラーが出なくてもアニメ化はできるが、フェラリオがいないとできないという事情は端的に見て取れる。
『ガーゼィの翼』いま1巻までだけど、わたしは既読だから先の展開はあらかた憶えている。1巻ですでに、「人殺しをしたこと」をクリスが思い出し、そのことを意識的に意識すまいとして意識から追いやるところが、ちらっと出てくる。
バイストン・ウェル物語には迫水・ジョク・クリスと続けて恒例の「通過儀礼」があるが、クリスの場合なぜかかなり後の章になる。今だったらその意味を考えてもよさそうなことだ。
このまえ、『アベニール』のスペース・ミュージアムで紛糾したヴァーチャル殺人ゲームの話があったが、そのときも触れたように富野由悠季は「戦争だから殺人じゃない」のような言いには自作の中でも必ず触れる、簡単に素通りはしていないし、それは古い。
その一方でその劇中殺人を飽きずにドラマにしてそれをキャリアにしているし、さらに、本人の後にも続く多数のフォロワーはそんな罪悪感や贖罪観はもたなくても同じドラマは作れる。人を殺して罪に悩むヒーロー像は使い古しのお約束なのが90年代頃だ。
コモン界でも『リーンの翼』のヘリコンと『オーラバトラー戦記』のユーロ地域は互いに地理的に繋がっていないようで、歴史も共有していない。ファン間では、それらはお互いに「パラレル世界」のようにおおむね説明されるが、後者のAB戦記中にもリーンの翼の伝説は伝わっている節がある。もっとも、作中であんまり大事なところじゃない。
『ガーゼィの翼』のヨーロゥ大陸にはまた、上の二作品でのできごとは全く伝わってはなく、ウォ・ランドンとか空の燐光などの大枠は共有している。ガーゼィの翼の聖戦士はやはり、来てまた去ることが語り伝えられている。伝説とはなにかを考えられるか…
リュクス姫は世界をまたいで大事な経験はしたけど基本的にコモン人で、地上世界の現代日本や地球のことは、科学技術とか社会構造の皮相を知っただけで、その歴史のなんたるかの根本はなにも理解はしないで帰っただろう。「これから僕らは考えねば」と思い知るエイサップ以上の歴史観を、リュクスが確立できたはずがない。年取って、彼女なりの理解と解釈をまじえて文章に記述したら、「リーンの翼の聖戦士」の昔からある伝説と大差ない本文になったので少し微笑んだ、かもしれない。
贖罪観についてはやはりヘイヤーガンを読み合わせてみるといいな。悪くないじゃないかガーゼィ!! 通読が実になってきたぜ。
これまた、『ガーゼィの翼』とは直接関係のわかられにくい連想でべつの本を探す。わたしはこのガーゼィを眺めててふと、
の二要素だけで『ウィザードリィだ』と思い当たった。ウィズで今わたしの思い出すのはゲームやそのノベライズ群よりも『組曲ウィザードリィ』(羽田健太郎)、そのうち寺嶋民哉編曲の#5,6であり、寺嶋民哉作品でいちばんおもしろいアルバムがこのアニメ映画のサントラだから。この本は一日で読んだ。作品は今なにか関係があったかというと、「少年が空飛ぶ」くらい。
ブクログのユーザー本棚の整理タグに色々設定できるのだが、「空を飛ぶ」(飛翔)の要素は、ファンタジー小説ではどうしてもストーリーのクライマックスの見せ場になり、個人のそんなところなど誰も見ないとしてもタグ振ってるだけでネタバレに近くなる。積極的に活用すれば便利だが、しにくい。
「竜」(ドラゴン)など設けているけど、ファンタジー小説にドラゴンが出てくるのは物語上の重要度に無関係に当り前だ。むしろドラゴ・ブラーが何巻に出てくるかを識別してる。猫だと多すぎて収拾がつかない。
心で飛ぶこと
上のアニメ映画(2000)に対して、原作破壊といえばその部分が目立ってわたしはやだなと思う一方、アニメとしてそんなに悪くも言いたくない、わたしはもともとCWニコルのファンでさえなく、劇伴音楽の趣味から来てるという。
原作小説(1983)には、そもそも「風の民」という設定がない。少年が超能力を現したり空を飛べるのは、生まれつき伝説の王族だとか、その遺伝子を受け継いでいるからではなく、少年に人には普通見えないものが見え、聴こえるから。それは何かのきっかけがあれば本当はきっと誰にもできる。現代人に埋もれた能力……心の力、魂で飛ぶ。
83年頃のファンタジー界にはこうした魔法観、現代文明が眠らせた力、心の力という考え方が浸透していたろうし、ニューウェーブなような流行とも合う。今隣で読んでるタニス・リーなんかはその代表ともいえ、不思議を現実にするのは信じて疑わない心、型にはまった呪文や儀式はいらない、という態度が強い。
富野由悠季だって時代の子だが、『リーンの翼』では迫水がもらった古い革靴はたまたまそこにあった品で、本当にその靴が翼の顕現に要るのか実のところ曖昧だ。本当は、「私は飛べる」と思いきれば誰でも飛べたのかもしれないが、「翼の靴なんかなくても飛べる」とまでは、行きそうで行かないようなところだった。
『ガーゼィの翼』には聖器として翼の靴はない。クリスがいればクリスの足に生える。クリスの絶体絶命のピンチで、その際必ずしもクリスの「信念」が生やしているわけでもなかったと思うが、それはこれから読み直してみよう。今日は上のアニメのサントラを聴く。
心の世界の自然界
異世界に召喚された1995年の現代青年クリスは、過酷な環境で事あるごとに『コンピュータゲームとは違うのである』と著者から釘を刺される。クリス本人もつくづくそう思うのだけど、『現実はゲームやアニメと違うんだ』と耳にタコほど聞かされて育っているであろう当時の青少年の通念とはまた、裏腹に、バイストン・ウェルは案外コンピュータゲーム的な世界である。
アシガバ族との最初の交戦では、コンピュータゲームほどひっきりなしに敵が出てきて戦うような現実はない、と思った。湿地帯では、人を食らうほどの大蜘蛛や恐獣が自然に棲息するには背景に広大な縄張りと生物相が必要だ、いくら恐ろしい怪物でも、巨大なほど一地域に棲息数は許容できず、倒しても倒しても無限に襲ってくるはずはない……とは思うのだけど、異世界には異世界のルールがあってそんな怪物が無限湧きするかもしれないとも思う。
バイストン・ウェルの自然は、地上界の常識的な地質学ではありえない地形に溶岩や石油が湧き出したり、急流や、天を衝く巨樹の密林が唐突に点在する。バイストン・ウェルは地上人の思念と想像力のつくる世界だからで、言ってしまえば何でもありで、もっと言えば小説の主役の迫水やクリスが行くところにそのつどアスレチックのステージとして奇怪な地形と異形の獣が待ち受けている。むしろゲームそのものともいえる。
ジョクは、おおむねオーラマシンで上空を飛び過ぎてしまうのでバイストン・ウェルの行き当たりばったりな自然に比較的悩まされなかった。作品は違うがこの印象は『王の心』でもう一度思い出してみると面白いかもしれない。
バイストン・ウェルの動植物は、地上界の動物種・植物種とよく似ているように見えても必ずしも同じでない、現地のコモン人の言葉では現地固有の名前で呼んでいる、葦や熊笹や竹や、魚のニシンとかタラと言っているわけではないが、地上人のクリスには「だいたいそれに似たもの」としてテレパシーで聞きとったり想像する。
べつにそんなこと一々に断らなくてもいいとも思う。ファンタジーを創作するときに、物語の人物のまわりの自然の気象も植生も人工の文物や歴史も何もかも、必ずしも「世界」を丸ごと新規に創造しなくてはならないわけではないだろう。近世のメルヒェンでも「架空のキリスト教国」と思っていれば具体的にドイツとかフランスと言わなくても、お城が建っている周りの森の木々はわれわれも知るブナやカシやナラで結構だ。
その話は今しない……。それは態度であって、上の、氷川さんの本では「世界観主義」のような言い方もしていた。
海外ファンタジーを読んでいるとき、先日も文中でアオギリとかサンザシと言われているのは気にしないとして、ヒマラヤスギ(cedar)という訳語が出てきて、――この世界にヒマラヤはなくてもヒマラヤスギとはいうか――それも読者むけに便宜的に翻訳されたのか――英語の原文にヒマラヤとは言ってないけど、語源を言い出せば松も杉も日本語だしなと思った。よくあること。
バイストン・ウェルの風物は地上人の心がつくりだすものなので、もともと人為的なこと、それと進化や歴史学の考え方と代わるもののように「伝承」がある。ここで地層や化石を掘り返せば混乱を極めるのかもしれない……各話の世界の案内人になるドレイクや、アマルガンや、ケッタ・ケラスはとくに進歩的なコモン人だから地上人の困惑は積極的に理解してくれる。
あと、コモン界の馬には角が生えていることは必ず言及される。この角が何かの役に立ったことはないと思う。それを見ると地上人は世界の違いを再認識させられ、身の内に慄く。
ユニコーンが出てくるファンタジーではユニコーンはよく角を武器(凶器)にして戦う。実在のユニコーンの生態はわからない、その決まりはないが、野生のシカやサイがするほどのことをユニコーンが躊躇わなくてもいいだろう。
現実の歴史では軍馬に装甲(鎧兜)を施されたこともあった。時代・地域によるが、わたしはフルアーマー化された馬の絵図をみると「勇ましい」よりも、微かにかわいそうな気持ちがする。
このまえ『The Birthgrave』の作中、主人公の女性が馴らした悍馬は面甲に角も装備し、戦闘では彼女のロングナイフとともに馬も共闘して噛みつく、蹄で蹴る、踏み潰すに加えてこの角で突いて斬り裂くと大暴れしたが、その馬は狂暴さのあまりすぐに戦死してしまった。
(馬の角まで熱心に理由付けすると、それを使って馬も戦わなければならない劇中の道具になるし、かわいそうにもそのせいで早く死んでしまう、という空想のお話づくりのことだ)
『ガーゼィの翼』2読了。先の、現代剣道と実戦のはなしはこの2巻におおざっぱにあった。クリスは弘道館の紹介記事で知ったとか。わたしは剣客小説が好きなわけでも、過去の剣豪や銘刀のリストを読み漁る趣味があったわけでもないがまあなんとなくそのような話は知ってる。
メトメウス族の武者たちや若者たちの名前は最初にカタカナでまとめて出して、キャラ立ては話が進みながら追々考えられていくよう、これはバイストン・ウェル物語いつもの。クロス・レットくらいで准主役くらいに育つ。ガーゼィでは、メトメウス族は武者(大人層、エウフリオの仲間)と若者(リーリンス以下のティーンエイジャー)の格差があってこれは読むうちにわかる。若者の一人「カブジュ」は2巻の途中から文中で「ガブジュ」と呼ばれるようになって後にはそれで確定するみたい。
書籍データの登録タグに「竜」と設けてると上でいったがドラゴロールは竜とかドラゴンにカウントするかな……。ドラゴ・ブラーは全くのドラゴンだったけど、恐獣はドラゴンなのかとは言いかねるし、このシリーズの恐獣の中ではまだまだ小物程度だったと思うが。
ただ、こういうキャラ属性みたいな恣意的な分類に含むか含まないは、まずは収集を目的に寛容に取ること。収集したデータを選別・整理するのはあとでもできるが、一度見てもそのとき迷ってスルーすると後からはなかなか思い出せない。だから迷うものはまず採取しておく、は原則。